兄妹設定です。苦手な方はご注意をお願いします。






 兄に手を引かれ走り抜けたのは五月、空気の澄みきった、初夏を迎えたばかりの空の下、あちこちで緑が芽吹き、耳をそばだてるとあらゆる瑞々しい生命達の鼓動が聞こえてくるような、そんな時期のことだった。叔父の家にある、広大で良く手入れのされた英国式庭園の中で過ごす時間。両親が難しい話をしている間、私達はいつも決まってその庭を駆けて遊んでいた。
 当時の私は小学四年生。兄はというと、私よりも二つ離れていて、春からは小学校の最高学年に属していた。今になって考えてみるとこの年は、翌年から兄が始めた部活によって今までのように叔父の家を頻繁に訪れることはなくなってしまった、転換の年だったように思われる。

 私は叔父のこの家、ひいてはこの庭が大好きだった。四季折々に移り変わる花々の景色も勿論のこと、この空間が生み出す優しく穏やかな時間を知っていた。そしてなによりも子供心を擽ったのは、まるで自分が童話の中に迷い込んでしまったかのような幻想的な気分になれるということだった。そこでは私は、アフタヌーンティーを嗜むお姫様で。兄はそんな私の困ったごっこ遊びにも苦笑しながらも、王子様であり続けてくれた。おてんばが過ぎる私にも、文句の一つもこぼさずにエスコートをしてくれる。女の子ならば誰もが憧れる、理想の王子様とは兄のような人のことなのだろうと思った。

  その庭園には薔薇の花で造られた迷路花壇があった。それは私が最も好んだものだった。兄に手を引かれ走ったあの記憶、聖母が広げるあの青いマントの下での記憶も、迷路花壇の中でのものだった。当時の私や兄の身長よりもずっと高くにそびえる色とりどりの薔薇達に見下ろされ、圧倒される程濃密なあの匂いに飲み込まれて、頭が麻痺してしまいそうだったのを覚えている。
 その時分、小学生だった私を少しは悩ませる程度の難易度だったその迷路は、きっと兄にとっては難しくも何ともない、退屈に違いなかったものなのだろうけれど、私が迷路に入るのにいつも付き合ってくれた。

「名は、薔薇の花が好き?」

 兄の質問に私は首を縦に振る。遍く花という花に好き嫌いはなかった私が特に好んだもの、それは薔薇だった。私がこの迷路花壇を好む理由は一つはそこにある。
 薔薇の花は、兄に似ていると思っていた。その美しく華々しい、ともすれば少し近寄り難い、刺々しい印象を与えかねない見た目だけでなく、甘く高潔な香りが醸し出す雰囲気が、まさしく兄の生き写しのように思われたのだ。そう言うと兄は驚いたように目を丸くして、それからすぐに私にうち笑んで、ありがとうと言った。
 棘のある綺麗な花は、どこまでも私には優しい花だった。
 私は兄が大好きだった。いつでも私の手を引いて、何をするにもどこに行くにも側にいてくれる、私だけの理想の王子様。学校でだってどこでだって、兄は私の自慢だった。物心ついたときから私は、それが節理だとでも言うように自然と兄に対して尊敬の念を抱き、その完璧なまでの存在を認めることができていて、その思いでもって兄を愛していた。
 二つ違いという比較的歳の近い兄妹であったのだけれど、その仲は親をして不気味なくらいに仲が良いと言わしめる程であった。不気味と言われようとも、幼少からずっと側にいて、兄のことをきちんと理解していたのなら、不仲になることなど私には考えられなかった。私の示す愛情に応え、私以上にそれを行動や言葉でもって贈ってくれる兄。優しくて美しい、そんな兄が私は本当に好きだった。


 迷路の中を駆ける。その時ばかりは普段物静かな兄が珍しく、楽しそうに笑っていた。痺れそうな程に濃い、薔薇の香りが辺りには充満していた。赤白色とりどりの花びらが、私達が駆け回る芝生の上に舞い落ちて、自然界には不自然だと感じられるその色の折り重なりに私は心奪われていた。
 私がしきりに足元のそれを気にしながら走っていることに気がついた兄は、足を止めてふと私の方を振り返る。そして優しく、下を向いて走るのは危ないと言って声をかけてくれた。私がそれでも走っていられたのは、兄が手を引いてくれたからだと言うと、兄は困ったような顔をして笑った。
 何を見ているのと聞かれた私は地面を指さして、ただ、綺麗だねと言った。私の指先を見て全て察知した兄もまた、頷いてくれた。
 不意に吹き抜ける強い風が、しなやかに伸びる薔薇の枝を一気に揺らして、私達の頭上にある薔薇からまた、たくさんの花びらが引き離されて風に舞う。目を閉じた一瞬を経て、その姿にまたもや私は目を奪われた。けれど、はらはらと落ちていく花びらを順当に目で追った私が見た、目を瞑る兄の姿はさらに、私の視線を釘付けにしたのだった。透けそうに白く薄い瞼のその皮膚の下、赤い薔薇と同じ色をして風にそよぐ長い睫毛に縁取られた、その奥に何があるのか、私はよく知っている。同じ色をした揺蕩う前髪の向こう、対照的に静かに閉じられた兄の瞼のその奥にあるものは、紅玉のように人々を惹きつけてやまない、或いは宝石よりもずっとずっと綺麗で純然な、赤い色をした瞳がある。

「薔薇の花にはね、」

 スッと開かれた兄の瞳の奥では、きらきらと空の光を受けて乱反射を繰り返していた。兄が徐に私の方へと伸ばす手を、じっと目で追いながら言葉の続きを待った。

「"秘密"という意味があるんだ」

 梳くようにして私の髪に触れた兄の指が、花びらを一つ捉える。差し出されたそれを見た途端、恥ずかしさに自分でも頬に朱が散っていくのが分かった。そんな私を見た兄はくすくすと笑う。兄には敵わない。ふとしたこんなことからも、私はそんな風に思ったものだった。

「覚えておいて」

 兄は再びそっと私の頭に手を伸ばし、壊れ物を扱うかのような繊細な手付きで頭を撫でてくれた。遠くで両親が私達を呼んでいる声が聞こえる。その声に気づいた兄と私は顔を見合わせて、互いにきっとどこか物足りなく思っていた。行こう。そう言って兄は優しく微笑んで、私の手をとって歩き出した。





「少し、歩かないか」

 湯気の立つ紅茶を手にとって、ただじっとぼんやりそれ眺めていると、兄にそう声をかけられて、ハッと顔を上げる。その挙動が少し不審に映ってしまったのだろうか、私を見つめる兄が少し笑った。

「久しぶりにここに来たからかな、懐かしくなったんだ。一人じゃ味気ないと思って。よかったら、付き合ってくれないか」
「……はい」

 懐かしくなったと語る兄の言葉は、 私にも同じだった。特に断る理由もなかった私はその誘いを二つ返事で引き受けた。
 立ち上がる兄につられて私も席を立つ。庭に向かって足を踏み出すと、少し先を行く兄が、悪戯な笑みを浮かべて私へ手を差し出してきた。その手の意味を理解した私は思わず、恥ずかしくなって俯いてしまう。たまにはいいだろうと兄に声をかけられて、無下にその手を払うこともできない私は、戸惑いながらも差し出されたその手へと自分の手を重ねた。久しぶりに取った兄の手は、数年前とは全く違う、私の知らない大人のものだった。

 叔父の家を懐かしく思うほどに、ここを訪れるは久しいものだった。兄が中学へ行ってから部活を始めたということもあって、こうしてここを訪ねることもめっきり減ってしまってからは、年に一度訪れるかどうかという程になってしまっていた。それから三年、五月晴れの眩しいこの季節に今こうして、久しぶりに叔父の家に家族でやってきていた。

 兄に手を引かれて周るこの庭は、昔と何も変わらないまま、綺麗だった。おとぎ話の中にに出てくるようなたくさんの花達が、聖母の広げる青いマントの下で瑞々しく咲いている。その光景に思わず、私の口からは感嘆の息が漏れる。それに気づいた兄は、心なしか歩調を少し、私に合わせるように緩めて綺麗だね、と呟いた。

「ここまでくると、あの人達にはもう恐れ入るよ」

 兄の言うあの人達、とは叔父と叔母である。その言葉にくすくすと笑う私に兄は少し機嫌を良くしたのか、また少し歩みが速くなった。

「ねえ、迷路に行ってみない?」
「ああ。今向かおうとしていたよ」

 私の思う所なんて兄にはお見通しだったのか、はたまた兄自身が初めからそう思っていたのかは分からないけれど、私達は意を同じくして迷路花壇の方へと歩みを進めた。

 風に運ばれた薔薇の香りが届く。辿り着いた迷路花壇はあの時と同じで、赤と白のコントラストの織りなす煌びやかな世界が広がっていた。ただあの時と違うのは、変わらないはずの迷路花壇が少しだけ小さく思えたことだった。それでも目の前に広がるその薔薇の壁は私達の視線を遮るのには十分な高さがあった。

「……綺麗ね」

 奥へと進む度に懐かしさがこみ上げてくる。道順なんてもう全て覚えてしまっていたけれど、それでも胸の高鳴りは収まりそうになかった。
 ふと、自分を見つめる視線に気がついた私は、隣にいる兄のほうを見やれば、兄がじっと私を見つめて笑っていた。兄の視線を受けた私は、少しはしゃぎすぎてしまっただろうかと恥ずかしくなり、顔を赤くする。
 ふっと私から外された兄の目線は、頭より少し高くにある薔薇の花へと注がれる。その花へと手を伸ばす滑らかな動作に見惚れた私を気付かせるように、迷路の中を一迅の風が吹き抜ける。

「薔薇の花にはね、」

 愛おしむかのようなその声を私は知っていた。それは私の名を呼ぶ声だった。

「"秘密"という意味があるんだ」

 一輪の、棘のない薔薇が兄に手折られて、兄はそれをゆっくりと私へと差し出す。薔薇を受け取った私は、その濃密な香りに頭がくらくらとしていた。

「知っているわ。昔、兄さんがここでそう言ったの、私、ちゃんと覚えてる」
「……そうか、覚えてたんだ」

 ありがとう。そう言いながら兄は私の頭に手を伸ばし、優しく撫でてくれた。
 遠くから、私達を呼ぶ両親の声が聞こえる。どうやらテラスから急にいなくなった私達を探しているようだった。呼び声に気づいているはずなのに、兄は動かない。遠くから聞こえる声に返事をしないまま、私達はただじっとしていた。

「……兄さん?ねえ、行かなくていいの?」

 そう問いかけてみるけれど、兄からの返事はない。兄は不意に繋がれた腕を自身の方へと引っ張って、私の肩を抱き寄せる。その突然の行動に驚いた私は短く声を上げてしまった。すると兄はそんな私を見て、子供を相手にするように人差し指を唇の前へやり、悪戯な笑みを浮かべた。

「静かに、名」

 私は普段の兄らしからぬ行動一つ一つに当惑しているというのに、囁くような声で私に語りかける兄は至っていつも通りだった。迷路の外側にいる両親達に見つかるとまずいことなんて何一つないはずなのに、私達はまるで隠れんぼに興じているかのように息を潜めて迷路の中にいた。兄が何を考えているのか、私には分からない。
 兄さん、そう呼びかけようと兄を見上げた私は結果その言葉を飲み込むことになる。兄の声はいつも通りの、私の名を愛おしむように呼ぶあの声のままだったはずなのに、その表情は私が見たことのないものだった。今にも泣きそうに眉を下げ、苦しげに笑う兄のその顔に、私は動揺した。声をかけても返事をしてくれない。何かを必死に抑え込むかのようなその姿に、何故か私は初めて兄を可哀想と思っていた。

「約束して。ここでのことは誰にも言わないで、父さん達にも秘密にするって」

 ぐっと私の肩を抱く力が込められる。甘く囁くその声に、僅かに恐怖で震えるものが見え隠れしていた。何をそんなに恐れているの。そう訪ねても兄はただ首を横に振るだけだった。

「約束する。誰にも、何にも言わないわ」

 私が兄を見据えてそう言うと、兄は手の力を少しだけ緩める。少しは安心したのだろうか、兄はまた、いつものように優しい笑顔を浮かべていた。
 口を閉ざした私は手渡された薔薇の花を添えてみせると、兄は私にありがとうと言った。まだ遠くで、私達を探し続ける両親の声がぼんやりと聞こえる。今は、その声に応えることはできない。

「名、聞いて」

 少し体を離した兄は私にそう語りかける。胸の前で握り締めていた私の手をとって、その手で優しく包み込んでくれる。

「ここから出たら、全て忘れるんだ」

 忘れる。その言葉にずきりと胸が痛む。どうしてかは分からないけれど、見上げた兄の背後に広がる空があんまりにも綺麗で、私は悲しくもないのに涙が出た。

「愛してるよ」

 私の持つ薔薇の花を手に取って、兄の体が再び近づく。少しだけ背を屈めて、私の視界には兄以外何も映らなくなる程に、満たされる。悲しい。兄の言葉が私の中で反響をする。私が返事をする間も与えられず、兄はそっと私の言葉を飲み込んだ。






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13/0106
なんかすっげー恥ずかしくなりました
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