橘の花の香りがする。
 風に乗って鼻腔を擽る、その爽やかな芳香に誘われて、僕がふと顔を上げた先、それは見知らぬ誰かの家の庭にあった。青空を背に、太陽の光を精一杯その全身で享受して生きようとするその姿が目に眩しい。繁茂する常緑の葉の中には、まるで季節外れに残る万年雪のように澄みきった真白い色をして、ぽつりぽつりと小さく愛らしい花が咲いていた。橘の花だ。脳の隅にまでそう認識が行き渡った僕の顔は、何故だか自然と綻んだ。
 目一杯に飛び込んでくる、目の前の絵画のようなその光景にすっかり心を奪われてしまった僕は思わず足を止めて、悠々と風に揺れるその木を仰ぎ見る。向かいの空に浮かぶ太陽の眩しさに目を細めると、少しだけ、眩暈がした。
 生い茂るその木と太陽とが産み出す、きらきら洩れる木漏れ日はまるで白昼の空に浮かぶ星々のようで、僕をひどく倒錯的な気分へと陥らせる。もしかすると僕は今、夢でも見ているのかもしれない。もしくは誰か他の、例えば蝶の夢の中にでも迷い込んでしまったのか。そう考えさえしてしまうほどに僕は今、五感に訴えかけてくるもの全てに身体を支配され、麻痺をして、ただただ穏やかな思考の森を彷徨っていた。

 目を瞑って、ゆっくりと、深く息を吸う。先程目にしたばかりの太陽が網膜に焼き付いて離れない。まだ少し春の柔らかさの残るあの太陽を瞼の裏で浮かべながら、不意にゆるく頬を撫でつけてくる初夏の風を感じて、そんなことを考えた。



 橘の花の香りがする。それは、懐かしい香りだった。


 閉じた瞼の向こう側、僕が歩む追憶の森の中、彼女は突然、ひらりと舞い降りてきて姿を現した。
 僕の名を呼ぶ、鈴の鳴る声はひどく楽しげだった。クスクスと笑いながら、呆然とする僕をよそに彼女は、僕よりも小さくて少し体温の低い、その手でスッと、僕の手を取る。流れるように華麗な動きで歩き始める彼女に手を引かれるがまま、僕はゆるりと奥へ足を踏み出す。奥は仄暗い。けれど背中にのしかかってくるような、押しつぶされてしまいそうなあの密接した暗闇への不安は、そこには全くと言っていいほどなかった。そこではゆっくりと流れて行く時間に身を委ねていると、まるでまとわりつく闇を毛布にしているような、不思議な心地よさに包まれる。

「どこへ行くのですか?」

 高く浮かぶ微かな木漏れ日を見つめながら、先を行く彼女にそう問いかける。彼女が振り返った時、その拍子に風に揺れて、ふわりと揺蕩う彼女の艶やかな髪からは、あの橘の花の香りがした。

「どこへでも。ふたりで行けるなら、どこまでも」

 彼女の声は、まるで詩を歌い上げるかのように軽やかだった。その足はステップを重ね、僕と踊るようにして前へ前へと進んでいく。彼女は、楽しそうに笑っていた。

「僕は、あなたの夢の中にいるんでしょうか」

 彼女が一歩を踏み出す度、地面に鍵盤が敷かれているのだろうか、どこからかピアノの音が聞こえて、辺り一面にそれが響く。亜麻色の髪の乙女。綿菓子のようにふわふわとした、空間に漂って耳に馴染むそのメロディーが心地良い。ここが彼女の夢の中だというのなら、とても彼女らしい、幻想的なものだと僕は妙に素直に腑に落ちる。

「不思議なことだらけですね」
「そう。楽しいでしょう」
「夢だから、あなたともこうして会えるんでしょうか」

 僕の言葉に彼女は少し、眉を下げて俯いてしまった。浮かべているのは悲しそうな顔だった。彼女を見た僕の心にずきりと痛みが走る。そんな顔をさせたくて言った言葉じゃない。謝りたかったけれど、どう言えばいいのか分からなかったから、僕は黙ったままでいた。

「ごめんなさい」

 どうして、あなたが謝るんです。そう言おうと開いた口は息をするだけで、渇いた喉からは音の一つも出ない。僕は何故、彼女が謝るのか、その理由を知っていたから。
 頭痛がする。海の底へと沈んでいくときのような、不快な耳鳴りを伴って僕の頭は痛む。そのうちに何も聞こえなくなってしまう。僕達を包む森の冷たい空気は、光の届かない静かな海底と似ていた。

「あなたの夢が、永遠に覚めなければいいのに」

 このまま夢の中、二人でこうして静かに過ごせたら。
 彼女は悲しそうに笑って、何も言わずに首を振った。手を握る力がぎゅっと強くなる。少し驚いて、彼女を見ると、ぐっと下を向いて涙を堪えているようだった。

「私、もう、行かなきゃ」
「そんな、もう少しだけ」

 彼女の声は震えていた。ここに居てと彼女を引きとめる自分が、ひどく女々しく思えた。

「夢は覚めるものだから。ずっとはいられない」

 震える声で絞り出すようにそう言った彼女の言葉は理にかなっていた。だからこそ、そんな理屈なんて分かりたくないと駄々をこねる子供のように反抗することしか自分にはできなかった。
 森の中にはいつのまにか、静かな雨が降りはじめていた。まるで僕の手に伝わる彼女の体温を、全てきれいに流してしまうかのように。
 彼女が風邪をひいてしまう。そう思う僕を余所に、彼女は心配しないでと言った風に優しく笑いかける。ばしゃばしゃと足元で跳ねる水がいつしか膝の辺りまできていたようだ。夢の中なら、溺れ死んでしまうことなんてないだろう。僕は動かなかった。ぎゅっと離さないように、彼女の手を握りしめる。彼女もそれに応えてくれた。

「水が満ちたら、ここは海になるのよ」

 そうしたら、私は流されてしまうから、またね。水はもう、胸の高さまで達していた。

「テツヤ、ありがとう」

 ちゃぷん。水は彼女の頭を飲み込んでしまった。雨音も届かない、完全なる静寂に包まれる。彼女の名を呼んだはずの僕の息は、ごぼごぼと泡になって消えてしまった。彼女は泣いていたのだろうか。見えもしない、水に飲まれたその一粒が、僕の周りのどこかを漂っているのだろうか。
 ふっと握りしめていた手が軽くなる。彼女はもう、そこにはいなかった。



 橘の花の香りがする。それは、僕に似合うと言ってくれた、彼女が愛した香りだった。


 息をすると、肺が懐かしい香りで満たされる。目をこすると光が漏れ伝わってきて、その柔らかな光は朝の訪れに伴うものだった。随分と長い夢を見ていたようだ。






五月待つ
花橘の香をかげば








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昔の人は、夢に現れる誰かは自分を慕って夢に現れてくれたのだと解釈していたと聞きます。
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