僕は知らない場所にいた。
そこはどこか日のあたる場所で、あたりには光に透けるような白い花が咲き乱れている。
初めて間近で見る花々は図鑑で見るものよりずっと綺麗だ。
…どうしてだろう。
僕はダアトから出たことなんて碌になかったのに。
どうしてか…この場所はとても懐かしくて、あたたかい……―――
「―――イオン、朝。おきて」
「ぐえっ」
気持ちよく寝てたのに、ぼすんと思い切り腹部にのしかかかられて、僕は何かよくわからない声を出した。上半身を起こしてあたりを見渡せば、背の高い本棚に囲まれた僕の私室だった。
また何の変わり映えもしない、見知った"今日"が始まったのだと思うと気が重い。どうせ今日も書類にサインして食事してアリエッタを愛でて寝るだけの1日だ。強いて普段との違いを言うなら、サフィールが遊びに来ると言っていたことぐらいだろうか。それでもさして変わり映えはしない日だ。
せめて外に出られれば――― …なんて、もう思わなかった。
…そういえば…夢を見ていた気がする。
それがどんなものだったかは、もう忘れてしまったけど。
ぼんやりと天窓越しの青空を見上げていると、僕の腹部に乗った塊が声を上げた。
「ぐえっ」
「…それは真似しなくていいんだよ。…おはよう、シンク」
「おはよう、イオン」
僕が緑色の髪を撫でてやると、シンクは嬉しそうに笑った。
…シンクを育て始めて、もう一ヶ月と半月ほどになるだろうか。
言葉もだいたいマスターして、好んで僕の真似をし始めるくらいには自我が芽生えてきた。
いくら僕の知識や記憶を刷り込んだレプリカとはいえ、それを扱う術を知らなければガラクタにすぎない。
これでもアリエッタにイチから言葉から人としての生き方まで教えたことはあるし、刷り込みがある分アリエッタよりもの覚えがいい。…アリエッタの時は、とにかく生理現象についての教育が大変だった。……あれで僕は魔物がどんな生き方をしているのかなんとなく理解したと言えるくらいだ。
シンクは『男』だし、そのあたりの刷り込みデータはサフィールとヴァンが作った。…サフィールだけだと不安だし。
…元は軍事転用するための産物とはいえ、刷り込みという技術には感謝しなければいけない。
起き上がって鏡の前で身だしなみを整えていると、もう着替え終わっているシンクが傍に寄ってきた。
…シンクは僕と違って早起きなんだよね。だから自我がちゃんと確立されてからはずっと起こされてるんだけど。
違うと言えば、シンクの髪は僕の髪よりもずっと癖が少ない。少しだけシンクが羨ましくなるのは、毎朝こうして鏡の前で30分ほど格闘している身としては当然だと思う。
寝癖と格闘する僕の寝巻きの裾を少し引っ張りながらシンクが僕を見て小さく首をかしげた。
「イオン、今日はいつ帰ってくるの?」
「今日は昼ごろまで公務で、その後はお茶をしようかと思ってるよ。その時に一度帰ってくるかな」
「…どうせサフィールでしょ」
少し拗ねたような顔で言ったシンク。その目は僕のものと違ってたれ目じゃない。
…そういう風に作れと"ディスト"に命令したからね。それでも生体の遺伝情報の改竄は理論的に不可能ではないとはいえ一筋縄じゃいかなかったし、確立は低いのだけど。
だけどシンクだけでも成功してよかった。
「ふふ。どうせ、だなんて…サフィールも随分嫌われたものだね」
「…変だから」
「一般から外れているには違いないのだけどね。けれど根は素直な男だから、あまりキツく当たらないでやって」
「……………」
「…ふふ。本当に素直だね、お前」
むっとした顔のシンクの頭を撫でてやる。
これからどういう性格になっていくかは分からないけれど、今はまだ素直なままでいて欲しいと、ぼんやり考えた。
「イオン?」
「…なんでもないよ。それよりシンク、今日はお師匠様に稽古をつけてもらう日じゃなかったかな。時間は平気かい?」
「…行かないと」
「シンク」
シンクが不安げな顔をして僕を見上げる。そんな彼の頭にぽんと手を置いて微笑んだ。
「頑張っておいで。いってらっしゃい」
「いってきます」
そう言って撫でてやると、シンクはこくりと素直に頷いて通用口から出て行った。
それを見送ってしばらくして、イオンが着替え終わった頃、控えめに扉を叩く音が聞こえた。
「おはよう…です、イオン様」
「おはよう、アリエッタ」
柔らかく緩んだアリエッタの頬に骨ばった細い指先を滑らせ、その冷たい掌で柔らかく包む。イオンはそうして目を細めて微笑んだ。
―――今日もタイクツな1日が始まる。
* * *
修練場に金属音と怒号が響く。女性の鋭い声と、覇気のある子供の声。
それを聞いた通りがかりの一般兵は、女性の声に見当をつけ、肩を跳ねさせてその場を過ぎ去った。
「―――止め! 今日はここまでだ」
その声を聞いたシンクは、軽く息を切らせながら額に浮いた汗を乱雑にぬぐった。
背の高い黒髪の女性は、チャキ、と小さな金属音を立てて剣―――というよりも『刀』と呼んだ方がいいしなやかな刀剣を鞘に納める。
おおかた息を整えたシンクは、その女性に向かって頭を下げた。
「…お師匠様、ありがとうございました」
「よしな。アンタにまでそう呼ばれる理由はないよ」
呆れたようにそう言ったカンタビレを見上げて、シンクは訓練中外していた仮面をつけなおした。
この不思議なデザインの仮面は、シンクがイオンに引き取られた次の日に、イオンからシンクの秘密を守るためにと渡されたものだ。
少なくともこれをしていれば、シンクは"シンク"として生きられる。だからシンクは影として生きることになろうと、仮面をつけて生活することを厭わなかった。
「イオンに礼を尽くせって言われてる」
「はあ…まったく、あの人にも困ったもんだ。いつもカンタビレでいいと言ってるのにね」
「イオンは頑固だよ。無理だと思う」
「そうさね…その通りだ」
そう言って溜息をついた黒髪の女性―――神託の盾騎士団第六師団師団長、レネス・カンタビレ。隻眼の女傑と謳われる『武神カンタビレ』その人だ。
ガシガシと頭を掻いて、もう一度面倒くさそうに溜息をつく。だがシンクは、そういうカンタビレが少し口元に笑みを浮かべているのを見た。
「しかしシンク。お前、なかなか見所があるじゃないか。戦闘訓練を始めて三週間でそれだけ動ければ、ウチの部隊長クラスなんて軽く伸せるだろうさ」
「だめ。その程度じゃ、イオンみたいになれない」
「なんだ。お前、イオン様になりたいのかい?」
首を振って否定したシンクに対し、にやりと笑ったカンタビレの言葉はシンクの中で何かに引っかかり、翳りを生む。
自分はイオンのようになりたいのか。そう考えれば、すぐに答えは出た。
シンクはイオンの代用品―――『五番目のイオン』として生まれた。だが何を思ったのか、シンクはイオンに引き取られ、『シンク』と名付けられ、居場所と知識、そして生きて行くための術を学ぶ場所と機会をも与えられた。
そんなイオンの行動は不可解だ。けれどシンクは、イオンに感謝していた。
イオンは体が弱い。それは刷り込まれた"知識"から知っていたことだったが、実際に青白い顔をしたイオンを見て、守りたいという気持ちは強くなっていた。
同時に、それが被験者を超越した運動能力を持った自分が表せる、最大限の感謝だと思っていた。
…イオンが強いことも、シンクは"知識"として知っている。
それでもシンクは、イオンを守りたいと思った。
―――それが答えだ。
「…違う。ボクは…イオンより強くなりたい」
そう答えて真っ直ぐ見上げたシンク。
イオンの夜に例えられるような暗く深い緑の瞳と比べれば、昼間の草原のような明るい色の瞳だ。目の形も、よく似ているがシンクの方がつり上がっているように見える。
少なくとも、シンクパーツの中では目許が一番イオンに似ていない。
しかし強い光を宿した瞳に、カンタビレは確かにイオンの面影を見、ふっと笑った。
「そうか。なら基礎訓練は怠るな。…お前は譜術力こそあの人には及ばないだろう。だが、体術ならあの人を超えられる素質がある」
「…!」
超える。被験者を。
それはレプリカのシンクにとって大きな意味のある言葉だった。
超える。それは他のレプリカとは違うことで、被験者とも違うこと。
自分が体術を極めることで、イオンとは違う存在になれる…『五番目のイオン』にとって、超えるということはそういうことだ。
―――なにより、被験者に、イオンに認めてもらいたい。
シンクは自分の中でその気持ちが膨らんでいくのを感じた。
「だがシンク、忘れるな」
急に真剣さを増したカンタビレの声色に、シンクがはっと顔を上げた。
強く確固たる信念を宿した黒い瞳でシンクを見つめるカンタビレ。その表情は真剣そのものだ。
その変化にシンクも口元を一文字に結ぶ。
カンタビレはそれを見て気が強そうな笑みを浮かべ、口を開いた。
「アタシもあの人も実力主義だ。認められたきゃ、その深淵から這い上がってきな」
* * *
「…最近、この修練場、騒がしい…です」
通りがかった修練場から聞こえてくる物音に、シンクも頑張っているんだなと、イオンは優しい笑みを浮かべた口元を僅かに緩めた。
「ええ。新しく入った士官候補生の方が、お師匠様にしごかれているそうですよ。なんでも天賦の才を持っているとかで気に入られているようです」
「カンタビレ師団長…強い人が好き、です?」
「そうですね。お師匠様は実力主義で…頑固ですから」
そう言ったイオンは公務のために移動している最中だ。
イオンに頭を下げる人間を内心馬鹿にしつつ、導師らしい笑顔で応えながら廊下を進む。面倒なことに、今日は反皇帝派のマルクト貴族が来ているらしい。更に面倒なことにその客人が侯爵であるために、無碍に扱うわけにもいかず、モースも渋々謁見を許可したらしい。
今は急遽ディストとの茶会を遅らせ、謁見に向かっているところだ。
イオンが何か考え込んでいる様子のアリエッタを見守っていると、アリエッタはぎゅっと拳を握ってばっと顔を上げた。
「…アリエッタ、もっと頑張る…です!」
「ふふ。期待していますよ」
「イオン様、そろそろお時間です」
「わかりました。…行きましょう、アリエッタ」
「はい、イオン様!」
微笑みながらイオンが謁見の間に足を踏み入れた―――その時だった。
「導師イオン、覚悟!」
「!」
剣や杖を構え、顔を仮面で覆った数十名の男女が突如目の前に現れた。
「――イオン様、お下がりください!! アリエッタ、イオン様のお傍に!」
アリエッタより先輩の導師守護役が前に出て、メイスで男が振りかざしてきた剣を弾き返した。
騒ぎを聞きつけた兵士や謁見の間の警護に当たっていた兵士たちが次々と参戦し、謁見の間はあっという間に戦場と化した。
(…参ったな。これじゃ僕が動けない)
"ご病弱な導師様"は不安げな表情で戦いを見守り、内心で舌打ちをした。
アリエッタがイオンの前に立ち、味方を譜術で援護している隙に、遥か上からイオンの背後に気配が降ってきて――イオンはハッとして振り返った。
「導師イオン――覚悟!!」
反射的に杖を構え、譜術の詠唱をと口を開きかけたその時だった。
「――臥龍空破!!」
「ぐあっ!?」
「!!」
聞き覚えのある声。だけど、少し違う声。
浮いた男の体越しに見えた烏を模した仮面をつけた、まだ華奢な少年。
驚きに目を見開いていると、浮いた男に追撃を描けるようにシンクが地を蹴った。
「飛燕連脚!!」
二度の空中回し蹴りの後に地に叩き落とす鋭い蹴りが入れられ、男は呆気なく気を失う。
それを見た襲撃者の仲間がイオンを睨みつけ剣を構える。
「っ、クソォッ!!」
「魔神月詠華!」
二度の斬撃に加えて放たれた強力な衝撃波が敵を吹き飛ばした。その悲鳴でカンタビレに敵の目が向く。
「アタシがいる前で導師イオンを襲撃するなんて、運がない奴らだ。まあいいだろう、この数なら多少は楽しめそうだしねえ…」
そう一人ごちて舌なめずりをしたカンタビレに、イオンは内心でああ、スイッチ入ったな、なんて思いながらもその背に隠れる。アリエッタの肩を抱きながら。
シンクがイオンを庇うようにイオンとカンタビレの間に立った。
カンタビレが不敵な笑みを浮かべながら声を上げた。
「アタシは第六師団師団長・武神カンタビレ! 腕に自信のある奴はかかって来い!!」
カンタビレさん出しましたが、ファンダム2は未プレイです。
画像検索して出てきたファンダム2のイラストとウィキペディアの情報からの想像で、導師派かつ実力主義者、ガイと同じ日本刀系統の刀を持っている、ということでガイと同じ系統の剣術を使い譜術士でもある譜術剣士、という設定です。
ちなみにシンクの技は、敵だから数が少ないだけできっと他にもいっぱいあるだろうなーと、とりあえず同じ格闘家のエターニアのファラを参考にしました。ファラかわいい。