序曲『ND2016』

07



ND2016 シャドウリデーカン・シルフ・1の日 深夜

――僕に残された時間は、後僅か。


今日はちょうど満月らしく、北にしか窓がない僕の部屋でも、澄んだ黄金の光が僅かに差し込んで僕を照らしていた。
夜空には月光に照らされて、星よりも強く光を放つ譜石帯が煌めいている。
それを振り返り気味に眺めていると、ヴァンが毛足の長い絨毯を踏みしめて僕に歩み寄ってきた。


「――アリエッタは本日任務を解かれました。明日からは別師団に属することになります。……これで…よかったのですか」
「ああ。彼女は"僕の"守護役。『七番目』にまで仕える必要はないさ…」


アリエッタを残して逝くのは気がかりだけれど、こればかりは仕方がない。
『イオン』に詠まれた預言通り ――― 僕は今日、死ぬ。

だから床まで本に溢れていた部屋を整理して、綺麗に積み重ねなおした。
机も整理して、大切なものは箱に入れて譜業を仕組んだ鍵をかけた。
今まで使っていたもので、まだ使えるものはシンクに譲った。
物心ついてからずっとつけてきた日記も、シンクに託した。
隠し通さなければいけないものも、すべて譜術をかけて隠した。

…もうやることは残っていない。

ふう、と息を吐いて、ヴァンに視線を向けた。


「ヴァン、お前はそろそろ下がれ。お前がここにいる必要はないだろ?」
「しかし…」
「下がれ」
「……は。…イオン様、ゆっくりお休みになられてください」
「………」


少し納得していなさそうだったけれど、どうでもいい。もうすべて終わるんだから。

ヴァンが部屋を出て行って、しばらく沈黙が部屋を包む。
数拍おいてから、部屋の入り口近くの本棚の前に立っていたシンクが、ゆっくりと僕の座るベッドに歩み寄ってきて、ベッドの傍に置いてあったイスに座った。


「……ねえ。いいの? アリエッタって、イオンのペットでしょ?」
「彼女は何も知らなくていいんだよ。本物のイオンが今日死んで消えてなくなったんだと知ったら、きっと彼女は僕の後を追うだろうから」
「………」
「…シンク」
「………」


つらそうな顔をして視線を逸らすシンク。
…こんな表情を見たいんじゃないんだけど、な。
最期くらい笑った顔を見たいのに……でも僕も笑えなかったし、仕方ないのかな。


「……ねえ、シンク。僕にはね、やりたいことがあったんだ」
「…やりたい、こと?」
「そう。…僕はね、自分の生まれた場所を探したいんだ」
「生まれた場所?」
「マルクト領だとは思うんだけど…。エベノスもトリトハイムも決して教えてはくれなかったからね」
「…」


普通に生まれたなら幸せになれただろうか。

いつも思う。
いつだって考えてきた。
もう叶わない。それでも僕は捨てきれなかった。

それをシンクに願うつもりはないけれど、せめて幸せくらい君のために願いたい。

シンクの手を握って、曇ったままの緑の瞳を見つめた。


「それにね…本当は夢もあったんだ。誰にも言ったこなかったけど…」
「…アンタに、夢?」
「アンタに、とは心外だね。…けどそうだね。僕に夢があるなんて、誰も思わないよね…」
「そんなことない、けど。どんな夢か想像つかないね」
「ふふ。…けどもう、叶…わない、ん、だね…」


突然襲ってきた激しい痛みに、僕は左胸を掴むように押さえた。
ああ、もう、どうしてこううまくいかないのだろう。
"人生はままならぬ"なんて、こんな時にまで適用されなくていいのに…。


「う…く、っ」
「イオン!!」
「は…、…もう、時間…みたいだね」


痛みをやり過ごして横目で見た窓の外、黒く塗りつぶされていた空が僅かに白んできて、夜明けが近いのだと知る。
"イオン"の死の預言は早朝だと詠まれていた。…もう時間がない。
サイドテーブルに置いてあった薬を水で飲み下して、同じサイドテーブルの引き出しから短刀を取り出して、シンクの掌の上に載せた。


「シンク。これを…」


これ、と瞳を揺らすシンクに小さく微笑みかけた。

――女性から男性に短刀を贈るのは、絶縁の意味がある。
僕も、男として育てられたとはいえ、一応は女だ。それがわからないシンクじゃないだろう。


「――"死とは現世との絶縁なり"。…僕からシンクへの、最期の贈り物だよ。受け取って」
「…ッイオン!!」


僕が戸惑うその手に短刀を押しつけると、シンクは顔を歪めて僕を見つめてきた。
その頬を撫でて、頭を撫でて、最期に感じるぬくもりを抱きしめて。僕は瞳を閉じた。


「生まれてから、お前は本当に努力を惜しまなかったね。体術も譜術もダアト式譜術も勉強も…本当に、よく頑張ってきたね。…お前は勤勉で努力家だから、これからもっと強くなれるよ」
「イオン、ボクは、」
「さあ、もう行きなさい」


そう言って目を潤ませるシンクの背を押す。
顔だけ振り返って僕を見る表情は、悲しそうだ。

…シンクは…僕の中の『レプリカ』という概念を粉々にぶち壊してくれた。
『被験者』を上回る能力を見せた奇跡に、死を目前にした僕がどれだけ励まされてきたか…きっと僕以外には誰にもわからないだろう。

僕に奇跡をくれた君だから…振り返らないでほしい。


「先に地獄で待ってるよ。…さあ」


そう言ってもう一度背を押せば、シンクは短刀を握りしめたまま扉の近くまでゆっくりと歩いて行って、立ち止まった。


「……おやすみ、…イオン」


声を震わせてそう言って、シンクは飛びだすように部屋を出て行った。

――これで、いい。
ベッドにそっと横たわり、目を瞑って最期の時を待った。


(これで僕は一人、か…)


サフィールがせめて、とくれた痛み止めを飲んだおかげか、もう体に痛みはない。
おかげでゆっくりと考え事ができる。
…サフィールに会えないのは残念だけど、きっと今頃研究室で顔を鼻水と涙で濡らしながら泣いているだろうから、そっとしておこう。

お師匠様にも顔くらい見せたかったけど、預言豚が邪魔してくるだろう。そのままあの豚を切り倒してほしかったものだけれど、そうしたらお師匠様の居場所がなくなってしまう。それが心残りだけれど、仕方ない。

シンクはきっと、この後泣くんだろう。零れそうな涙を見せたくなかったから、僕に背を向けたままだったんだろうから。…やっぱり、あの子は男の子だな、と思う。

アリエッタは…、…アリエッタは、あの子は泣き虫だから。"イオン"に冷たくされたら、寂しがるだろうか――


(………寂しい?)


寂しい。…寂しい? 寂しいって、なんだ。

大切な人が傍にいなくなること? 僕にとって、大切な人は――エベノスと、お師匠様とサフィールとアリエッタと、シンク。

みんないなくなった。違う、僕がいなくなるんだ。

さっきまで傍にあったぬくもりは、もう残っていない。

――ああ、


(…君の気持ちがようやくわかった。君はずっと寂しかったんだね)


そう思って、ハッとして目を見開いた。


(本当に寂しかったのは ――― 誰だ?)


やっと気付けた。

馬鹿みたいだ。今更になって、こんな時になって気付くなんて。
寂しい。その気持ちが胸に押し寄せて、いっぱいになって、涙として溢れた。

だから君は泣いていたんだね…だからお前は泣きそうだったんだね。


そう―― 死んだら何も残らないんだから。


そう思うと、急に何か冷たいものが押し寄せてきた気がして、ぐっと寝間着の左胸のあたりを握りしめた。
今までよりずっと明確に感じる死の気配に、気付いたら視界が暗い天蓋の天井が見えないくらいに滲んで、ぼろぼろと涙が頬を伝って零れていった。


(死にたくない、死にたくない死にたくない死にたくない)

―― それがお前の望みか?

(そうだよ。僕は死にたくない。まだやりたいことだって沢山あった。ひとりは寂しい。寂しいのは嫌だ。僕だって人並みに生きてみたかった。預言に支配されて死ぬなんて――嫌だ)

そう強く思った時、何か声が聞こえた気がしたが、それはすぐに消えてしまった。
次いで浮かんだのは、シンクとアリエッタの顔。


(シンク…アリエッタ……)


二人とも、幻影の中で、幸せそうに笑ってる。
―― それを見たとき、胸の奥が暖かくなるような感情があるのに気付いた。


(ああ…そうか……これが――)


何かを求めるように虚空へと伸ばした手は、何にも触れることなく、力なく毛布に落ちた。

――それきり、"イオン"と呼ばれた少女は、動かなくなった。




* * *




この十ヶ月で使い慣れた抜け道から外に出て、その扉の前に蹲った。
イオンの――『被験者』の部屋の隠し扉は、教会の北側で、常に影になっている石畳の広場前の廊下に繋がっている。

不意にずくりと胸が痛んだ、気がした。


(……イオンは…、……)


きっとたった今から、"イオン"は"イオン"ではなくなった。今日からは新しい"イオン"が"イオン"として生きていく。

――ボクは"イオン"にすらなれなかった、出来損ないとして生まれた。

だけどそのイオンは、どういうわけか出来損ないを拾い、保護し、育てた。
最初こそボクはただの気まぐれで、出来損ないを哀れんで拾ったのだと思っていた。
けど、イオンはモースに捨てられたボクを助けに来た。
…それからイオンは、ボクのの一番大切な人になった。護りたかった。助けたかった…。


けどその大切な人を喪って、ボクに何が残ったんだろう?


(―― ボクは空っぽだ)


嫌味なくらい晴れた空が夜明けを告げる。
頬に暖かいものが伝って、袖に落ちて黒い服に滲んだ。それは止まることなく、滲んだ黒を深い色に変えていく。

―― ボクは泣いた。
白い夜明けの空の下で。

心に穴があいたような、大きな悲しみと虚無感。その後に怒りと憎しみが押し寄せてくる。まるで、その穴を埋めようとするかのように。


(『被験者』は、預言に殺された 預言を信じる人間に殺されたんだ)


世界中で預言を信奉する人間も、魔界にあるとかいう街の人間も。
豚…モースも詠師達も、イオンを心配していた詠師トリトハイムだって見殺しにしたにすぎないし…ヴァンだってそうだ。

ローレライを消滅させるだとか預言が憎いだとか計画がどうとかご高説垂れておいて、"預言通り"にイオンを殺した。
皆預言のためにイオンを見殺しにした。


(これからボクはお情けで生かされる)


ヴァンがボクを自分の手駒にしようと色々と暗躍していたのは知っていた。
つい先日戦死した第五師団師団長のこともあって、今日は大規模な人事異動があることになっていると、イオンから聞かされている。

きっとボクは師団長の遺言書とか正当そうな理由をこじつけて第五師団の師団長にでも昇格する。そしてイオンと仲が良かったカンタビレは左遷されるんだろう。
実力主義のイオンがそんなことするとは思えないから、カンタビレを疎んでいたヴァンとモースが決めたことだろう。


(だけど、そんなことどうでもいい。イオンがいないなら、何も…)


陽が完全に昇った頃にヴァンがボクの元を訪れるまで、ボクは蹲ったまま声を殺して泣いた。
最後の仕事が終わったら、イオンを殺し、ボクを作った世界に復讐すると、そう誓って。


――その日は、シャドウリデーカンの眩しい太陽が昇って、暗い廊下に光が差し込んでも、あの部屋で『おはよう』と言うことはなかった。




* * *




どすどすと大型の魔物が歩くような音を立てて暗い隠し通路を往く。その背後には数人の男が、棺を担いで歩いていた。


「――ふん。ようやく預言に詠まれぬ忌み子を葬れるのだな」
「その通りですね、モース様」
「まったく、正しい預言が読めぬなど、導師にする価値もない! 一応は男であるレプリカの方がよほどましだ!! 導師エベノスは一体何を考えておられたのか…」
「仰るとおりでございます」


機嫌悪く顔を歪めるモースに、斜め後ろを歩く男は手を揉んでにこにこと答えた。
それに満足したのか、牛のようにふんと鼻を鳴らしたモースは、創世歴時代の石らしきもので作られた扉を押し開けた。

部屋に続く階段を登って、イオンが眠る豪奢なベッドへと向かう。
ちゃんと死んでいるかと確認するように顔を覗き込むと、モースは瞠目した。


「………これは……なんということだ!」


モースはその肥えた腹を揺らして後退り、本棚に背中をぶつけ、そして叫んだ。


「――即刻棺に入れてパダミヤ平原に埋葬しろ!」





/ bkm /

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