全ての闇を塗りつぶして、赤々と火が燃える。無残にも踏み躙られた命を身の内に取り込んで、火は勢いを増す。夕陽のように視界を染め上げるそれは空をも侵し、星の光をも喰らいそうで少女は身震いをした。
隣に佇む男は、ただ、火を見ている。
「アレス兄(にぃ)、何を見てるの」
答えはない。少女は訝しげに首を傾げて、ねぇ、と問いかけた。男は視線を移さず、ポツリとある男の名前を口にする。ヘパイストス。兄貴。途端男が注ぐ視線に煽られてか、火の勢いが増した。
ガッと足元に転がる屍を苛立たしく蹴りつけ、少女は男の前に立った。火は彼女の背後にある。
「兄は最近その名前しか言わないんだね」
少女はアレスと呼ばれた男の視界を奪う。
「血の繋がりがあろうとなかろうと、所詮跛(びっこ)を引いた醜い神じゃないの。母に捨てられたのに態々戻ってきて、あまつさえ兄を傷つけて。兄はそんな男をなんで気に掛けるの?仲良くなれるとでも思っているの?まさか、向こうはヘラ様の膝元で暮らしていた兄を憎んでいるかもしれないのに?憎んでいるに決まっているのに?そんな奴と仲良くしようと思うだけ不毛でしょ?だから、私と仲良く遊んでてよ。アレス兄を大好きな私と遊んで。じゃないと私、」
「エリス」
アレスが少女の名前を呼ぶ。弾かれたように顔を上げ、エリスと呼ばれた少女は微笑みながら男の名前を口にしようとした。兄と。
「エリス、兄貴は俺を傷つけられないから…そんなに心配すんな」
途端失われた言葉を、少女を置き去りにして、アレスは火に目をくべる。
赤々と。煌々と。勢いを増していく炎に為す術もなく、エリスはただ星が喰われる様を見つめるしかない自分を心から呪った。
105.憎む
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新しい何かと引き換えに失われた‘日常’。
2012.04.22.