『覚えていらっしゃいますか。
あの方が私を連れ、貴女の目の前に現れた日の事を。貴女の瞳が曇り、そして晴れた日の事を。
あの日、私は正直、貴女に拒絶されると思っていました。
それは、貴女があの方を愛するからでなく、貴女が美しく気高い女神だったから。きっと、私のような死すべき者があの方の側にいるなど許し難く、まして貴女がいるのにも関わらず愛を叫ぶのは、きっと殺したいほど憎いと、殺されて仕方ないと、そう思っていました。
だから私は、その純然たる憎しみを受ける覚悟でいたのです。
でも、貴女は違いましたよね。
あの方に連れられた私を見て、「渡さないから」と笑顔で、否定するでなく罵るでなく、私を認めて下さいました。
それにどれだけ心が震えたか、貴女はご存知ですか?そしてどれだけ嫉妬に気が狂ったかも。
貴女の笑顔に魅了された瞬間悟ったあの気持ちを、きっとあの方はご存知でしょう。愛される者の強さを、喜びを、言葉と言わず爪先一つでさえも表現できるその自信を。私は羨ましく、妬ましく、それでいて好ましく、愛おしく感じていました。今思えば、あの時から貴女に心奪われていたのでしょう。そうでなければ、この後に続く幸せな日々はなかったはずですから。勝負なんて初めから決まっていたのです。
あの方の下へ降って、貴女に会って、それからは幸せ過ぎるほど幸せな日々が続きました。
ベッドから出れない私を見舞う優しい方々がいて、何も言わず話を聞いてくれる不器用な方がいて、忙しい仕事の合間を縫ってあの方が訪れてくれて。
色を亡くした世界の中で、私は確かに生きていました。本来ならば忌むべき“死”の辺(ほとり)で、何よりも“生”を感じていたのです。おかしな話と笑われるかもしれませんけど。それでも、あの時が私の春でした。
ねぇ、覚えていらっしゃいますか?
貴女は彩り豊かな花を抱いて、私に色々な世界を見せて下さいましたよね。白い百合の野も、高座から見る景色も全てが鮮やかに思い出せます。
そういえば、どちらがあの方が好きかで喧嘩したこともありましたね。勝敗は分からず仕舞いでしたけど、あんなに白熱したのは初めてでした。貴女の前では、素のままで居られた証拠かもしれません。それは、なんて幸せなことなのでしょうか。
友と呼ぶにはあまりに身分不相応な私ですが、それでも、貴女を友と呼ばせていただきたいです。それとも貴女なら、やはり好敵手と呼ぶのでしょうか。もしそうであれば、身に余る光栄。年甲斐もなく泣き出してしまそうです。
思い出せば、思い出すほど幸せ過ぎて言葉を失います。感謝も謝罪も、書き連ねなければならないことは多分にあるのに、どうしてでしょうか、言葉も出ないのです。
それでも、これだけは伝えなければなりません。
あの方にした最後のお願い。これを読む貴女には伝えられなかったこと。それは、私を木にも花にも変えて欲しいということです。この冥府にある草木になりたいと、皆様に願いました。煙のように意思もなくさ迷うことが、今になって恐ろしいのです。いいえ、嘘ですね。きっと私は、この幸せの中で死にたいのです。でも、悔恨は尽きません。
皆さんの側に居たかった。
あの方の慰めになりたかった。
貴女と共にありたかった。
それでも、これが最後の我が儘です。ですから、お許し下さいますよね?なんて、ずるい聞き方でしょうか?心優しい貴女様が許して下さるのを分かっていて言うのですもの、ずるいですよね。ですが、どうかご容赦下さい。
ねぇ、ペルセポネ様。
私のあの方へのこの思いは、恋だったのでしょうか。愛だったのでしょうか。憧れだったのでしょうか。
分かりません。分かりませんけど、でも、確かに大切な方でした。あの方も、貴女も、皆さんも。
死んでなお皆さんの側にいることが出来たなら、どうか疎むことなく抱きしめて下さい。抱きしめ返す腕はなくとも、朝露に借りて涙を流すことはできますから。』
風がそよぐ。木々が泣く。
少女が字を一つ追う度に、草はざわめき頭を垂れた。
「貴女、馬鹿よ…ホント」
少女の姿をした女神はポプラを抱き、涙を零した。ポトリ。ポトリ。幹が濡れる。その度に木はざわめき、木の葉が落ちる。まるで、悔やむように、惜しむように、震えている。
そうじゃないの。違うの。私が伝えたいのはそうじゃないの。声にならない声が風となり、彼女の髪を撫でていく。
「許すとか、許さないとか…そういうものじゃないでしょ」
ポツリと女神は漏らした。
「だって、好敵手だもの。友達だもの。頼まれなくたって、疎まれたって抱きしめてあげるわ」
分かるでしょう?と彼女は言う。
風がそよぐ。木々が泣く。
少女が一つ言葉を口にする度に、草はざわめき頭を垂れる。
―――歓喜の中で。
「初めて会った時から…ずっと大好きよ、レウケ」
レウケ
〜ある女神の告白〜
2011/03/23