譬(たと)えようがない。
直感でそう悟った。男の噂をかねがね伺ってはいたものの、所詮噂に過ぎないことを酷く実感する。
確かに目の前に佇む彼は、深淵を覗き込んだ際に見えるような底知れぬ黒を髪に湛え、色をなくした黒衣を纏う。闇の中で浮き出るように肌は白く、だのに目だけは色を持つ。紫水晶(アメジスト)。鈍く光る。零れ出る。生気を無くした世界で、その威を揮(ふる)う。冷酷で残酷な神。まさしくその姿そのものだった。

しかし、どうしようもなく美しい。

こちらの世界にはない美しさだった。明朗快活な光を浴びた世界にはない、柔い月の光を集めたような輪郭のなさ。底知れぬ存在への不安。焦燥。それをも孕む強かさ。本当に譬えようがない。言葉を失くしても魅入るだけの価値があると、そう思わせた。

「実際に会うのは初めてだったな」

不意に、均衡が破れた。
カツンとブーツが床を叩く音して、彼が自身の前に迫る。無骨な指が生白い指に取られるのを、ただ見つめていた。

「初めまして、へパイストス神。私が、―――ハデスだ。」
 
男は、笑った。

彼の愛を語るること


「突然押し掛けてしまってすまない。本来ならば連絡をすべきだったんだが、幾分今回の呼び出しが急だったものでな。たいしたものではないが、受け取ってもらえると嬉しい」
「はぁ…ありがとうございます」
「返品はしないでくれよ?」

男は、ハデスは、微笑を湛えながらそう言った。来客用の菓子類を机に並べ終えたへパイストスは、対面に座り、訝しげに一つ頷いた。
さあと促されるまま、手土産だと渡された袋を開けると、ごろごろと転がる原石らしきものが目に映った。まさか。一つを取り出して光に透かしてみる。マラカイト、エメラルド、イエローサファイヤ、ルビー…いや、ピジョンブラッドか。一つ一つ光に当てるたびに大粒の輝きを放っている。どれも明らかに質が良い。いや、良すぎるくらいだ。

「あの、これ…」
「普段のお礼だ。気に入ってくれたらいいんだが」

指を組み、顎を乗せて微笑む姿が無邪気すぎる。

「いや、気に入るも何も…俺は権能を果たしているだけで、こんな高価なもの頂けるようなことはしていません」
「冥府の王と妻を喜ばしたんだ。十分貰えるだけの仕事をしていると思うが…もしかして、原石の選択が悪かったか?」
「…っ、そうではなくて」

笑みが深くなる冥府の王に舌打ちをしそうになりながらも、言葉を捜す。勿論、すぐには浮かんでこない。
カチャリとカップがソーサーに触れる音がする。飲むのだろうか、飲んだのだろうか。映像は目の前に広がっている筈なのに、読み取ることが出来ない。それくらい緊張して、追い詰められている自分に気づき驚いた。カチャリ、先ほどは飲む前の音だったのか。

「では、これならどうだろう、へパイストス神」

逃げられる気がしない。

「君は人のために仕事が多いと聞いた。だから、君のために働ける仕事を、と思ってこの石を選らんだ。君がヘラを大事に思っていることも、妹たちを大事にしていることも知っている。そんな君が、家族に何か贈りたいと思ったら、最高の技術と品を贈るだろう。その時に、最高の材料も必要になるかもしれない。私は君に恩を感じているし、君の力になるだけの権能も持っている。だから、これを贈った。受け取るか、受け取らないかは君の自由だが、『返品しないでくれ』と言った私に、君は頷いてるわけだが…さあ、どうする?」
「…白旗をあげます」
「正解。賢い子は好きだ」

ぐしゃりとへパイストスの頭を撫でながら、ハデスは言う。突然の工場への訪問以上に友好的な冥府の王に戸惑いながら、頭を撫でられたのは何時振りだろうか。そんなことを考えた。少なくとも、今はこんなことをされるほど幼くはないし、甘えたでもない。しかし、不思議と嫌ではないのは何故だろうか。
初めの、形容しがたい闇を纏った姿とは反対の出で立ちで振舞うハデスに違和感を覚えながらも、されるがまま、いわれるがままに頷く。そういえば、かつてアレスが言っていたかもしれない。彼の前だとゼウス神とポセイドン神も大人しくなる、と。いわんや俺をや、というところだろう。

「ハデス様…髪が「様付けは好きじゃないな。アレスと同じように『叔父上』はどうだ?」…はい?」

手が離れたかと思えば、そんなことを宣う。人の話を聞いているのかいないのか分からない姿にため息が漏れそうになりながら、未だ無理だと伝えれば残念そうに笑った。それを見て、面白い人だなと思う。少なくとも、自分の周りにいるタイプの方ではない。いいな、と思う。羨ましいな、と思う。海の中も優しかったが、中傷がないわけではない。女性が多い世界と、男性が多い世界とでは世界の見え方が違うことをヘパイストスは知っていた。
だから、こそり、笑みが零れる。

「…ハデス様は面白い方ですね。俺、こんな風に扱われたことはないですよ」
「ああ、よく言われるな。冥府の皆にも、アレスにも言われたことがある」

不意に、色を失くした声で答えられた。

「私は…ただ、好意を態度で表しているだけなんだがな」

それが物珍しい事とは切ないよな、と。とても寂しそうに見えて、目を伏せた。

「でも、逆も考えられる。まあ、それが今日の本題なんだが」
「本題?」

ふと、談笑していただけだったことに気付いて、座り直した。
 よくよく考えてみれば、忙しい冥府の王が、例えオリンポスに呼ばれていたからとはいえ、長時間もここを訪れる筈もないのだ。
変わった空気に戸惑いながらも、どうぞと先を促した。

「君は、好意にあぐらをかいていると思ったことはあるか?」 
「はい?」
「人の好意に気付いているか、無下にしていないか、ということかな」

くすりと笑って、その綺麗な指を組み直した。
おそらく、アレスのことだろうと頭では理解しつつ、ハデスの話を聞く。大方、ハデスにアレスが愚痴ったのだろう。どこまで話しているのかは、分からないが多少頭が痛くなった。

「…それは、ないかと思います」
「そうだ。普通、好意に胡坐をかくことは少ない。好意に対して、大方の者は好意を抱くからな。無下にすることは出来ないし、無下にしたとしても後悔をする。だから普通は無い。ただ、」
「ただ、」


「―――好意は永久ではない」


ガツンと頭を打たれたようだった。
理解していることなのに形にされるとこんなにも違うのかと思い、握り締めた掌に爪が食い込んだ。ハデスは薄く目を細める。

「例えば、私があの子を愛するのを止めたとしよう。彼女はどうなると思う?」

酷く突飛な問いに息を呑む。

「彼女は私を忘れて生活するだろうか?」

試すように、下から覗かれる。その中、懸命に頭を働かせる。間違いは許されないような、威圧感が其処にはあった。
今の仲睦まじい様子を考えれば、彼女は戸惑い、その裏切りを恨むだろう。瞳に愛が無いことを嘆いて、自分の愛が深まっていることを確認する。その上で行動を決めるだろう。おそらく、彼の気持ちを取り戻す方向で。そう考えられるのは、始まりはどうであれ今の二人が回りも羨む理想の夫婦であるからだ。
では、もし二人が相思相愛でなかったら―――答えは簡単だ。

「今の二人でしたら、彼女は貴女を忘れません。ですが、もし、始まりのままの関係で今へと続くのであれば、忘れていくと思います」

まっすぐに答えたつもりだった。
ハデスの目が揺らぐ。

「…残念、不正解だ」

まるで、分かっていないとでも言うように。

「私にとっては怖い妄想だが、彼女がずうっと私を嫌いであっても彼女は、私を忘れない。私が彼女に好意を注ぎ続ける限り、または長期的に注いでいた場合、彼女は忘れられない。理由は簡単だ。逆に怖くなるんだ。ふと垣間見えた愛の、好意の見えない行為に」
「…つまり?」
「…つまり、好意には依存性がある、ということだ。そして、失くすと怖くなる。自分でも信じられないくらいに」

ソファーに深く座り直して、ハデスは切なげに息を吐いた。

「勿論、これは好意が過剰な場合だがな。引きずられると言ってもいい。好意が最大の前提になってしまうと、それがなくなるのに不安を覚える。またそれが欲しいと思う。例え暴力を伴う好意でも、好意があって殴られるのとなくて殴られるのでは感じ方が違う。怖い、話だろう?」

自分の愛の根底を覆すような発言をしながら、嗤うその姿を恐ろしいと思いながらも、耳を傾けずにはいられなかった。そして、当て嵌めずにはいられない。この理論を利用するなら、自分が向けている好意は届くはずなのだ。好きだと囁き続ける中で、それが当然になってしまえば、少なくともその人の中に自分の居場所が作れる。素晴らしいことだと思う。もし、この気持ちが届くならば。この努力が何時かは報われるならば。でも、

「だが、気付いてるだろう、君も」
「はい…好意を送り続ける方はとても辛い」
「そう…辛い。君もそうであるように。だから永久ではないのだろうな」

不意に頭を撫でられて、ビクリとする。
今度は優しい瞳に見つめられ、分からなくなる。この方の真意が。

「だから、忘れないでくれ。好意に胡坐をかいてはいけないんだ」
「…つまり?」
「つまり、一方通行だと好意が、愛が信じられなくなるということだよ、ヘパイストス神」

スッと腕を引き、カップに手を伸ばす。
消化不良を起こしながらも理解を試みるが、まるで酸欠を起こしたように脳が動かなかった。好意を示し続ければ良いのだろうか、返し続ければ良いのだろうか、どうしたらよいのだろうか、分からない。分からない。それが答えなのかも知れない。いや。
混乱する頭を、無理やり押さえ込もうとする。すると、生白い指が下ろしたままの髪を掬うのが見えた。

「そのままがいい」

やはり、分からなかった。





2011/03/23