何気ない話の括りに、障りない話題を振った。

振った、筈だった。しかし、目の前の女性が酷く驚き怯えているのを見て、狼狽する。空を映したために翡翠色をしたその瞳は開かれ、うっすらと膜が張っていた。こぼれ落ちるかと差し出した手に柔い手が触れ、うなだれる様に下がる、その髪の隙間から白い項(うなじ)が目に入った。震えている。抱きしめたい。けれど、出来ない。葛藤を抱えた掌はその白い指を包み込み、まるで殉教者の様な声で、貴女に問うた。

「聞いたらあかんことでしたか?」

「…いいえ、そうではないの。そうではないのだけれど」

ふるふると振られた首に安堵を覚えた。けれど、じわりと湧き出る汗が拒絶を恐れる子供の様に泣いている。嗚呼、これはトラウマだ。拭い去ることなど不可能な、悪夢を纏うて生きているのだ、俺は。
思いを抑えるためにもゆっくりと息を吐き、声を搾り出した。優しい声音に隠された恐怖がじわじわと溢れ出していく。きっと今怯えているのは、ーーー言葉にする勇気は無かった。

「無理に話さんでも、俺はええですよ?」

嘘はない。

「…でも、貴方には知る権利があるわ。だって家族ですもの。そうでしょう?」

嘘じゃない、貴女の言葉が胸に刺さる。嬉しい、だなんて久しぶりに感じる感情に戸惑って、随分穏やかさを孕んだ顔で見つめた。目に抱かれた強い光が眩しくて、実感したその言葉に「そうですね」と呟いた。

貴女は優しく手を解き、その頭を俺の肩口に乗せ小さなため息を吐いた。されるがまま、言われるがまま、その時を待つ。
いつもであったら、彼奴であったら拒絶するだけのスキンシップも、今は有り難かった。どうせこれから語られるのは自身の望めぬこと。遠い昔の影なのだ。

絹糸が眼下で揺れた。

「あれは貴方が帰ってくるずっと、ずーっと前の話。あの人が好き放題やっていた時代で、勿論、今も好き放題しているのだけど、でももっと、そうね、酷かった時代かしら…そして、私が貴方達を省みなかった時代のお話」

「あの頃の私はあの人が私以外に産ませた子供達が憎くて憎くて憎くて、殺してしまいたくて、だからその子供達に比べて出来の悪いあの子がそれ以上に憎らしくて堪らなかった。いらないと思ってた。だって私と、正妻の私とあの人の子供なのに、なんで?可笑しいでしょう?そんな酷い事を当然の様に思ってたの。だから…だから、あの頃は本当に、あの子に呼ばれたって何一つ返事をしたことがなかったわ。振り返ることも、視線を送ることさえも一切しなかったの」

それって、どんなに辛いんでしょうね。
何を考えているか分からない声音に応えられず、ただ頷いた。振動が髪を柔らかく伝い、時折髪の隙間から覗く睫毛が震えている。それをただ、見つめていた。

「…当時のあの子はね、人間で言うと、そうね、10(とお)になったくらいの可愛らしい少年だった。娘達もそれなりに大きくて、たまに私が見ない間に一緒に遊んでいたわ。でもね、私がいる時には絶対に彼女達には近付かなかった。彼女達にも近付かせなかったの。きっと、私が二人を大事に大事にしていたから。…嫌われている自分といるといけないって、そう思っていたのよね。それでも私を『母上、母上』って呼び続けて、毎日花や絵を持って来ては今日何をしたとか、何処に行ったとかを伝えようとしていたわ。…それも全部後でイリスに聞いた話だけれど」

褪めた嘲笑が響いた。

「それである日、あの子が両手一杯に百合の花を抱えて帰ってきたの。白い、白い、あの頃の冥府に唯一咲いていた花。本当は…持ち出すのは好ましくないのだけれど、弟は…あの子に甘いから持たせてあげたのよ。後で聞いたら私のために無理言ってお願いしたらしくて…でも、その時も私はあの子を無視した。『母上、母上』ってだんだん小さくなる声も、自分のヒールの音で掻き消して。…そしたらあの子、小さな声で言ったの。」

急に肩口から離れ、貴女と目が合う。

「何て言ったか、分かる?」

「…分からんです」

今にも泣き出しそうな顔で、それでも笑う姿に既視感を覚えながら返した。その言葉に、役に立たない自分に殺意を覚える。これでまた貴女が傷を抉る時間を増やしたのだ。


「…あの子、…あの子ね、『母様』って言ったの」


ほら、泣いているじゃないか。

「震えた声で『母様、母様』って何回も何回も。最後は涙混じりの声で呼ぶの。男の子なのに、『母上』って言うようにちゃんと仕付けたのに。『母様、母様』ってまるで女の子みたいに…娘達みたいに呼んで。驚いて振り返ったら、やっぱり泣いていて、なのに目が合ったのが嬉しかったのか分からないけれど、けど、あの子幸せそうに笑ったのよ!自分の声じゃ、呼び方じゃ届かないなら、妹達と間違えていいから、自分なんて見なくていいから、だから気付いてって…そう、…そう思っ、てた筈なのに!…なのに、笑ったの。笑った、のよ。あの無邪気な笑顔で、まるで、認められないことが当たり前のように。子供、なのに…!」

不意に過(よ)ぎった「あの子」の笑みを思い出す。違和感。あれはやはり、既視感(デジャヴ)だったのか。

「…それからよ。あの子がたまに『母様』と読んで、その時に私が責められるように振り返って。そして…あの子は…あの子であることを止めた。私が自分の過ちに気付いて、あの子をちゃんと見た時には壊れた人形みたいになってた…これが、あの子が、アレスが私を『母様』と呼ぶ理由よ」

ひくり、喉が鳴る。
頭の隅で理解しながらも、繰り返されるフラッシュバックに吐き気がして、眉を潜めた。トラウマ。既視感(デジャヴ)、フラッシュバック、虚構、反転された幸せな世界。視界がチカチカと歪んでいく様な気がする。傷が疼いた。

「ごめんなさいね…ろくな母親じゃなくて」

嘲笑を繰り返すその瞳を見ながら、思う。例えこの視界を埋め尽くす何かが何であれ、全て生み出したのはこの胎(はら)なのだ。ならば、答えは決まっている。
はーっと息を吐く。傷は疼いたままだ。

「俺は…俺は貴女がええんです。貴女が、ヘラ様が俺の母であって欲しいんです。だから、気にせんで下さい」

今度こそ抱きしめられた肩は、細くて頼りなかった。まるで宝物を失った少女のように純粋に悲しむ姿が痛ましく、だからこそ、その傷が憎らしいと思う。自身にはない貴女との思い出を持てる彼奴が、妬ましくて苛立たしくて羨ましかった。

「…でもね、私は許されるなんて思ってもいないし、許して欲しくもないの。アレスに、『母上』なんて呼んで欲しくないの…だって、だって、私は!」

「母上。落ち着いて下さい…母上」

「ヘパイストス。お願いよ、お願い。お願いだから」

爪先が白くなるほど強く握られた母の指に、ゆっくりと自分の手を重ねた。そして、組み込まれた輪の中で繰り返されているのだと気付く。
トラウマ。既視感(デジャヴ)、フラッシュバック、虚構、反転された幸せな世界。血ほど狡いものはないと言ったのは誰だろう。まるで引き剥がされた半身のような人生を送る中で、彼奴の思い出が自分の痛みに取って代わる。けれど、いない。母の思い出には、俺の思い出には、まだ互いがいないのだ。この欠落(きず)をどう埋めればいいのか。答えすら見つかっていないというのに。

「…分かりました、『母様』」

「ヘパイストス…」

上手く笑えていただろうか?
不意に湧いた居た堪れなさから、母から視線をそらした。揺れる視線、その先に映る花瓶に差された白い、白い花が揺れる。輪郭を無くした白い花が揺れている。まるで嘲笑うかのように揺れるその花は見たことも無いほど美しい、名も知らぬ花。

ーーー白い、百合だった。


失われた言葉


(嗚呼、せめて。せめてこの傷の半分でも貴女に分けることが出来たら、私も貴女にそれだけ強く思われることが出来るのでしょうか。殉教者よろしく心中呟いて、思う。今日も彼奴は母を呼ぶのだろう、あの笑顔(デジャヴ)で。そして、ちらつかされた母の傷を見つめながら、俺は自らの傷を貴女のために抉るのだ。)




2011/01/07