雷鳴が、海鳴りが。鼓膜を震わす。
不穏な空気に引かれ、雲間に佇む応接間にアレスはそれとなく視線を向けた。

白亜の大理石が鈍く光を照り返している。開け放たれた扉から見える光景は、さながら名画の一枚のように彼の目に映った。扉に身を任せた漆黒の王はけだる気に視線を流し、色合い鮮やかな衣に身を包んだ海神は荒々しく叫ぶ。それを嘲笑うかのように口許を歪めた紺碧の瞳をアレスは知っている。―――我が父にして神々の父、ゼウスだ。

三界を、世界を司る各神の姿が白い光に彩りを添え、その姿は文字通り神々しい。ただタイトルを付けるなら、形容詞は「アレイオス」だろうとアレスは苦笑を浮かべた。
晴天なのに雷鳴が聞こえる。山上なのに海鳴りが聞こえる。そして極めつけがこの空気だ。普段温厚な冥王が武器に、鞭に指をかけている。

久しぶりに兄弟揃っているのに変わらないものだと、もう一度アレスは苦笑を浮かべた。いや、もしかしたらこれこそが兄弟の証左なのかもしれない。それならば羨ましくて仕方ないのだけれど。そう考えて目を細めたアレスは、不意に感じた視線に屈託のない笑顔で返した。

闇の中で鈍く光る紫水晶(アメジスト)も麗しいが、光の中溶けていきそうな瞳もまた美しい。
駆け寄れば、鞭から離れた指が柔らかく髪を梳く。まるで陶器のようなそれは、見た目に反して温かくて心地好い。大好きな手だ。

「こっちにいるなんて珍しいな、伯父上。父様とポセ伯父はまた喧嘩?」

「ああ、アレス。地上で問題が起こったらしくてな。こうして呼ばれたんだが…あの状態だ」

顎で示すハデスの眉間には濃い皺が刻まれていた。釣られて視線を向ければ、今にも胸倉を掴み合いそうな二人がそこにいる。
会話に耳を傾けようどすれば、ハデスの声がする。餓鬼の罵り合いと何も変わらないのだから聞くだけ無駄だ、と。そう言う声には呆れが含まれていた。

「テメェがちゃんとしてねぇから問題が起こるんだろーが!だからさっさと俺によこせっつったんだよ!この愚弟が…!」

「その愚弟に勝てない癖に何言ってるんだい、ポセ兄。いや、愚兄かな?全く、オリンポスに来る時は正装しろって言ってるのに、いつも胸元ばかり開いて恥ずかしくないのかい?娘達に悪影響及ぼさないでくれよ、ただでさえ女性問題とか迷惑なんだから。と言うか、露出狂は猥褻物陳列罪で捕まれ。さっさと捕まれ。タルタロスに堕ちろ」

笑顔で親指を下に向けて喧嘩を売る父親に、案の定、伯父の血管は勢い良く切れた。ああ、世界が滅ぶ。また、呟きが漏れた。

「ぁあ゛!?テメェにだけは女性問題についてとやかく言われたくねぇし。俺が露出狂ならテメェは服着た猿だろーが。万年発情期野郎こそ堕ちろ。タルタロスに堕ちろ。んで、俺に王座よこせやゴルァアァアアア!」

「ぁあ゛!?やるのかい!?」

不意に雷鳴が轟き、大気中の水分が震える。ほんのり湿り気を帯びた肌に、ピリッと電気が走った。壁が歪む。

「…あれいいの?二人とも本気出してんだけど」

「いいんだアレス、無視してろ。どうせすぐ終わる。あれが二人なりのやり取りだからな…首を突っ込むだけ疲れるぞ」

「でも…建物壊したら母様と兄様がマジギレするだろ。それはヤダかも」

ぶすりと顔を歪めながら告げれば、ハデスは顎に手を当て考え込む仕種をした後、後のこともあるかと小さく呟いた。
瞬間、産毛が逆立つ。背筋に冷たい何かが通り過ぎた。それは何か、冥府に似た、停滞する冷たさを思い出させて息を詰まらせた。

『二人共、聞け』

ああ、そうだ。確かに、これは。

『何をしている、二人共。周りを見ろ。そして答えろ。空気が軋んでいるのは何故だ。壁が歪んでいるのは何故だ。私達は何故此処にいる。呼んだのは誰だ。応えたのは誰だ。お前達はタルタロスを話題に持ち込むが、忘れるな。あそこに行くには私の領地を通らねばならない。あまり領分を忘れるべきではない、得にお前達はな。』

酷く空々しい笑みを浮かべながら、冥王は言う。

『もう一度聞く、何をしている』

まるで澄んだ湖畔、一切の波紋を許さない静謐さが空気を塗り替えた。喉が張り付いて、ひくりと震える。それすら咎められているような気になり、アレスは息すら止めた。
これが裁かれる者か。蛇に睨まれた蛙のように思う。空気だけでこれなら、目が合っている屍はさぞかし辛いだろうに。審判を下す者の瞳は日の下に在りながらも仄暗い輝きを宿し、哂らっているのだ。

一閃、ポセイドンの掌が空を切った。

空間が避ける感覚がして、アレスは息を吐いた。そして一瞥される。眉根を寄せて、さも罰が悪そうに口にするのを、何故か他人事のように遠く見つめていた。

「俺達が悪かった。だからそれ止めろ、ハデ兄。アレスが固まってんだろ。ったく…ゼウス!さっさと解決すんぞ」

「そうだね、終わらせようか、ポセ兄。ハデ兄怒らせると怖いし、何より、息子が可哀相だったかな」

悪いね、私達の争いはまだ若いお前にはキツかっただろう。
労いの言葉に首を振れば、紺碧の瞳がまるで月のように歪む。唇だけを震わしたありがとうは目を通して脳に焼き付き、これが記憶なのかとアレスは一人納得した。
父が背を向け、中央を占める円卓へと向かうのを見つめながらぼんやり思う。この畏怖と憧憬を。

「…なんつーか、すげぇよ、伯父上」

「褒め言葉として受け取っておく…アレス、すまなかった。配慮に欠けていた」

気にするなよと手を振れば、ハデスは苦笑を浮かべた。謝意を込めて頭を撫でる掌に、安堵の吐息を吐きながらも、アレスは考える。
相変わらず、冥王としてのハデスは空恐ろしい。普段は温厚さに隠れていて見えないが、彼は正義を公正を司る神なのだ。ありのままの事実を受け入れ、精査し、相応の決断を下す。それは一見すると合理的な定めに見えて、最も理不尽な裁きなのだ。結局は彼の采配一つなのだから。例外のない法律が無いように、イレギュラーの無いモノが果たして世界に存在するのか。
そこまで考えてふと思う。ならば何故俺は彼に嫌われていないのだろう。大切にされ、甘やかされている自覚はある。それは何故だろう。答えは出ない。イレギュラー。それにしては俺の存在は質が悪いだろうに。

遠く、海王が手を振る。

「おい、ハデ兄。さっさと来いよ。話進めらんねぇから」

「そうだね、ハデ兄がいないと話が進まない…ポセ兄が役に立たないから」

「ぁあ゛!?」

『やめ「ああクソッ!分かった!分かったから止めろっつってんだろ、ハデ兄!」

楽しそうなやり取りに思わず笑みが漏らし、離れていく指を見つめた。

「ハデ兄も大概意地悪いな」

「お前ほどじゃねーだろ。なぁ、ハデ兄?」

「さぁ、どうだろうな。まぁ、手のかかる愚弟共には負けるだろうが」

伏し目がちに微笑んだハデスに皆の空気が柔らかくなる。それを感じて、アレスは嬉しそうに微笑んだ。

そしてゆっくりと後退する。

一歩、扉から体を出せば絵画の中は光に包まれ、幸せが溢れているように見える。三人は一所に集まり、小さな喚き声は聞こえるけれどそれ以外はそこにない。不意にハデスの手が弟達の頭に触れ、二人はそれぞれに反応を示しては笑う。はにかみながら、あるいは悪態をつきながら。その中に見える感情。調和、とはまさしくこれだろうと思う。



故にアレイオス―――アレスは去らねば。



不意に耳鳴りがした。
世界が歪み、足元が覚束なくなった。
じわりと込み上げてくるものに、アレスは無性に叫びたくなって三神に背を向けて走り出す。回廊に反響する足音が自身をせき立て、踏み締める指先に力が入って痛い。息が切れて、視界がぼやけて、血の味がして。なのに世界は動いている。幸せが溢れている。少なくとも、たった今拒絶されたアレスの横で。少なくともハデスの掌の中で。


―――アレイオスは去らねば、

―――アレイオスは、

―――アレスは、

(不要なのだ、平和の中には)


苦しさに立ち止まり、壁にもたれ掛かるように座り込んだ。荒い息の合間に鳥の囀りが、妹達の明るい声が聞こえる。母のヒールの快活な音に、侍女の運ぶカップの音がカタカタとまるでリズムでも取っているかのように響いた。3時が近付いていたのか、スイーツの甘い臭いもする。遠く聞こえる、金属を引きずる音は反響する回廊の中、だんだんと、歩を進める。
でもそこに“アレス”はいない。
白い光の中、優しい愛情に包まれた絵画にはアレスは居てはならないのだ。

―――なんだ、今更じゃないか、


アレスは《一人》微笑んだ。
俺を必要とする世界はあるのか。―――それは彼を愛する世界と同意義ではないのだ。
俺を見つけてくれる者はいるのか。―――それは戦場に、血濡れた争いの中にあり、常世、世界の外にあるのだ。
答えは始めから持っていたのに。

目を閉じて、大きく息を吐く。
雷鳴も海鳴りも止んだ空はただただ青く、その清々しさに包まれたオリンポス山(其処)は限りなく“天国“に近かいような気がして、アレスは密かに息を殺した。




切り取られた楽園


(そこは世界に嫌われた俺だけが住むのだ)





2010/10/05