それは偶然だった。
いや、モイライに言わせて見れば偶然ではなく、その母がそうであったかのように必然だったのであろうけれど、ともかく偶然だったのだ。執務室の横、仮眠を取るための休憩室なんて普段は使わない場所を訪れたのは。
普段、忙しい裁判官達や主(あるじ)が仮眠に利用する其処は、場など関係無しに眠る自身は滅多に訪れない。サボるのに適していないからというのもあるが、自身がいると仮眠にならないことが一番の理由だ。多忙という点ではのけ者扱いされてる気がしないでもないのだが、別にいい。気にしない。仕事と趣味がイコールで繋がる自分は恵まれているのだから文句などある筈もない。でも、

「…あ、れ?タナトス、寝てるの?」

寝台の上で眠る片割れを見詰めながら、思う。取り残されたようなこの不安は何なのか。まるで死んでいるかのように生白い肌を見下ろしながら、息を吐いた。

「もう一人で眠れるようになったんだね、タナトス――――」





――――幼い頃を思い出す。
あれはまだ黄金の時代。全ての災厄が箱に閉じ込められ、幸せに満たされていた時代。それでも人間に死は訪れ、タナトスの心が己の《業》に押し潰されそうになっていたあの頃。まるで幸福という布に広がる一点の染みのように、死は人間の心を少しずつ蝕んでいった。生を尊び、死を疎む。今思えばあれは白銀の時代に堕ちる前ぶれだったのかもしれない。でもその染みはタナトスまで飲み込んで広がった。奈落。タルタロスは人間の心の中にあったのだ。
それからだ。タナトスが笑わなくなったのは。泣かなくなって、眠りさえ拒むようになった。眠りさえ…僕さえ拒んだ。忘れるはずがない。何時でも側にいたんだ。何が出来たかなんて未だに分からないけれど。

『タナトス…寝よう。もう1週間も寝てない。目、クマができてるよ。だから、ねぇタナトス。寝よう?』

『寝て、眠って…どうなるって言うんだよ、ヒュプノス。目を閉じればアイツらが浮かんでくるのに。死にたくないと苦悶の表情で烈火の如き形相でまるでまるで…全ての悪がそこにあると言わんばかりに!俺だって!俺だって、眠りたい。だけど怖いんだ!網膜の裏に焼き付いたみたいに、鼓膜を幾夜も叩いて!分からない。分かりたくないんだよ、もう…!』

『ねぇタナトス、聞いて』

今でも鮮やかに思い出す。

『きっと「タナトスが辛いのは分かる」って言っても信じてくれないだろうけど、苦しむタナトスを見て僕だって苦しいんだ。眠らないなんて言われたら…泣きたくなる』

『っ、ヒュプノス…』

『だから、ねぇ、タナトス。僕らは眠るように死に、死んだように眠るのを望むのに、どうして離れることなんて出来るの?君が眠れないなら僕が側にいる。そしたらほら、きっと眠れるよ。怖い夢も見ないよ。見る前に眠ってしまうから。ねぇ』

その時のタナトスの顔が忘れられない。
困ったような助かったような泣き出しそうなくしゃくしゃな顔が、ゆっくりと形を変えて―――――





「―――ねぇ、タナトス。君は何時か僕を置いてくのかな?そしたら屋敷からも、出て、いくんだろうね」

寝台の縁に顎を乗せて、まるで拗ねた餓鬼のように呟いた。

離れてしまう、それはとても悲しいことだ。
少なくとも、彼が、彼女が来るまではタナトスが自分の全てだったのだ。それを奪われるのは辛い。半身を奪われる痛みはきっと耐え難いだろう。けれど、タナトスにとっては良い変化なのだ。明けない夜が明けた。しかも僕の力なしに、眠れるようになった。死神にそぐわない優しさを持つ彼が、その優しさを糧に生きていける世界が広がりつつあるのだ。それは弟として手放しに喜ばなきゃいけない。

喜ばなきゃいけない。でも、やっぱり“寂しい”。

「置いてくなよ、タナトス」

取り残されるのは嫌だ。

「置いてくわけない、当たり前だ」

不意に温かい掌が頭を撫ぜた。

「俺達は死んだように眠り、眠るように死ぬことを望んでるのに、離れられるわけがない…そうだろ?ヒュプノス」

驚いた。と同時にぽろり、涙が溢れた。
いきなり泣くな、感傷的過ぎると零しながらも微笑むその瞳が優しくて、じわじわと熱が眼窩に集まる。急に寝て起きて不安だったんだからな、なんて口にしなかった。悔しくて出来なかったのだ。だから、寝たふりなんて質が悪いと告げたのに、気付かないお前が悪いと呆れながらも寝台を半分開けるから。あーもうダメだと知らず笑みが零れる。
そして確信するのだ。大丈夫、大丈夫だ。僕らが変わることなどないと。先のことなんて分からないけど、ただ、この望みだけは永遠に変わらない。変わらないのに変われるはずがないだろうと本能が伝える。タナトスがあの時と同じように笑ってくれたんだから、きっと。

不意に頭を撫ぜる手が止まった。泣き疲れたらどうせ眠たくなるんだろ?そう言う兄の声はぎこちなく、顔は赤い。けれど、恥ずかしいなら止めろよなんて、そんなことはやっぱり言えなかった。さすが兄さん、よく分かったね。微笑もうと薄めた瞳。その視線の先で、開かれた毛布が物欲しげに揺れたような気がした。


死神は淡い眠りに夢を見るか


((久しぶりの体温が心地好い夢へと誘った今日のことも、僕らはきっと忘れない))




2010/08/11