物心付いた頃からこの部屋は殺風景でした。
天蓋付きのベッドに木彫りの机、申し訳程度に置かれた水差しは相変わらず減ることを知らないまま、今日もなみなみとその水面に光を映しています。幼い頃と変わらない光景。この部屋は時間(とき)を忘れたようにただただそこにありました。それが良い事なのか悪い事なのか私には分かりません。けれど愛しいと思う気持ちだけは理解りました。きっとこの部屋の主を何より大切に思い続けていたからでしょう。私は久方ぶりに入ったこの部屋が変わらないことが、実に嬉しかったのです。

「…兄様、ヘベが参りました」

私は天蓋の中、ひっそりと沈む影に声を掛けました。影はピクリとも動かず、コツコツとベッドサイドへ近付いていく足音だけが大理石の床に響きます。

コツコツコツ、コツコツコツ…

いつも聞いている筈の音なのにひどく懐かしく、新鮮な気が致します。この部屋だからでしょうか。それともこの訪問が始まってまだ2度目だからでしょうか。トクトクと鳴る心音が次第に早さを増して行く中、近付いているのに影は一層より深みを増して。薄いカーテンを開けて視界に広がったのは、赤黒い血に沈むお兄様の姿でした。

…ふぅ、と一息吐きました。

先程使いの者からお兄様は今朝方戦を終えて帰ってきたと聞いたばかりでした。疲れて、そのまま部屋で寝ることなんて何回もあったことでしたし、何より血は赤黒いのだから問題はないはずです。お兄様の血はそのお髪に似て砂金を孕んで流れる清水の如くでしたから、私は安堵の溜め息をもう一度零しました。血は乾燥してパリパリと海苔のようにも見えます。私は何の躊躇いもなく、酸化された血糊に染められた黒髪に手を伸ばしました。

「湯浴みに参りましょう、お兄様?せっかくのお髪ですのに」

パリ、と予想していた音は鳴らずぬちゃりと粘着質な音が響きました。途端、見目麗しい稜線が震え、勢い良く生白い腕が私の手首へと伸びました。そして、叫び過ぎて低く掠れたような、男性特有のエコーがかった声が部屋に響いたのです。感触を気持ち悪いと思う暇さえありません。

「…ヘベ、俺に触ったら駄目だって、昔から言ってただろ」

黒く濡れた髪の隙間からピジョン・ブラッドの輝きが漏れ、生暖かい指がぐいと赤黒い血糊を拭っていきました。私は息を呑みました。一瞬ちらついた獣の本性に畏縮してしまったのです。瞬きに捕食者を見てしまったのです。なんて、罪深い。それなのにこの温もりを失いたくないと願う私は尚も罪深く、そんな自身が空恐ろしいものに思われて、ひゅうと喉が鳴りました。嫌われてしまう。そんな私の恐れさえも飲み込んでお兄様は想いをはっきりと形にしました。形とは「言葉」です。「言葉」は「言霊」であり「呪い」であるとは誰が言ったのでしょう。

「お前は、汚れちゃ、いけない」

焦点の合わない瞳を細めたお兄様は、それでも確かに私を見て、硝子細工のように透き通る繊細で凄惨な笑みを一つ零しました。綺麗、でした。穏やか、でした。ですが明確に引かれた線が私たちの前に横たわります。全身を、ベッドを染める赤黒いシミが無ければ私も穏やかに微笑み返せたのに。…ああ、私は馬鹿だわ。そんな考えを持つなんて。首をふるふると振り、謝罪の言葉を唱えようとします。けれどお兄様は私の口を視線だけで塞いで、そんな顔をするなとまた笑むのです。お前は何一つ悪くない、俺が悪いんだよと優しい瞳で見つめるのです。本当にずるい。でもそんな所でさえ悲しい程に愛しいのです。本当に美しいのはお兄様であって、汚れてしまっているのは私だと絶対形にさせないお兄様の心が愛おしいのです。明確な拒絶に隠された愛情。私はそれに抗う術を持たない愚妹でした。それは今も変わりません。
ああ、もう、と。私は業と厳格な顔をしてお兄様の腕を取りました。振り払らわれないことは知っています。知ってはいますが、そんな顔を作らないと泣いてしまいそうで、また厳めしい顔を作って「行かなくちゃ駄目です」と声を張りました。震える声に気付かれませんように。優しさに甘えてしまう自分が消えてしまいますように。

そうして、お兄様を掬い上げたその手を見ました。
私は確かにお手を取っています。けれど、私は本当にお兄様をすくい上げられているのでしょうか。(私ばかりが救われている気がしてなりません。)…分かりません。分かりませんがこの手を離したくはなくて、怒られると知りながら黒ずんだ衣服ごと抱きしめました。…今度こそ涙が頬に伝いました。私は私。この愛しさを知っている限り、お兄様から離れ、消えることなど出来ましょうか。恐れるのは獣の本性でなく私の弱さなのです。

「……ヘベ、」

ぽつり、お兄様のお言葉が微かに脳髄の横を霞めました。けれど、言うまでもなく、それは私へのお怒りでもこの想いへの返事でもありませんでした。勿論、私も求めてはいません。愛とは無償。ただそこにある。それだけで十分なのです。

(十分、です、のに、お兄様は…)

背中を撫でてくれるぎこちない腕が愛おしくて。私は堪えきれず愛されたい我が儘を嗚咽に込めて、大好きだと離れたくないのと、もう二度と拒まないでと強く抱きしめ返すほかありませんでした。

それすらも私の弱さですけれど。



アイロニィ・ブルーに沈め



(じわじわと赤黒く染まる私の身体を見つめながら悲し気に視線を落としたお兄様は、いやに神妙な顔をして「ごめんな。少しずつ慣れて行くから。待ってて」そう呟いて今度こそしっかり抱き締めるので、私は忽ち苦しくなって、涙を止め、息すらも止めてしまうのです。)




20120201 加筆修正