「…はい、出来ましたよ」

髪を撫ぜた指が、カチンという音と共に離れた。頭には少しの重量感。重金属で作られたバレッタは光を取り戻しーーいや、前よりも一層その輝きを増してーー私の髪を飾っている。その事実が嬉しくて、ペルセポネは小さく微笑んだ。

先日ハデスから貰ったバレッタが壊れた時、ペルセポネは世界が滅びてしまうのではないかと思われるほど、声を上げて嘆いた。彼女にとってその髪飾りは二人を繋ぐ糸のように思えた品だったから、壊れてしまったことが悲しくて涙の海に沈んでしまいたいとさえ願ってしまったのだ。しかし、そんな時に限ってアレスが尋ねてくるものだから、油断からだろう、ポロッと弱っている姿を見せてしまった。例えば、涙。くしゃくしゃで不細工な顔。ボサボサなネグリジェ姿。それを振り返れば振り返るほど後悔ばかりが募っていく。気が動転していたからとはいえ、アレスに見られるなんて一生の不覚で。本当に悔しかったのだ。

けれど今は、そんなことはどうでもよかった。

ペルセポネは髪留めに触れて、もう一度鏡に目を移してみる。白金は薄紅色の髪の中で静かに光って、その存在感は慎ましやかで女性らしさが見て取れる。その輝きに目を凝らせば凝らすほどペルセポネの口からは感嘆の溜め息が漏れた。天界一の名工の手にかかればこうも美しく蘇るのか。まるで作られたばかりのように石は光を放ち、金細工は生物さながらの躍動感に溢れている。
彼の指は魔法の指だと、宝物を語る子供のように告げたのはアレスだったけれど、なるほどそうだと思う。

彼ーーヘパイストス神の指は何物にも勝る不思議を纏っている。


「ありがとうございます、ヘパイストスさま。突然押しかけてしまいましたのに直して頂いて、しかも髪まで結って頂いて」

「気にしないで下さい。私も冥府の鉱物には興味がありますし」

髪結いは妻があんなんですから。
伏目がちに口にして、ヘパイストスは道具をカチャリカチャリと直していく。銀色の工具がキラリ反射してなんだか幻想的に見えてしまう。まるで工具だということ忘れてしまうくらいに奇しい。ならば、あの道具達はさながら魔法のステッキにでもなるのだろうか。アレスの言葉を思い出しながら考えてみる。

確かにヘパイストスの部屋は見慣れないものばかりで溢れていた。凝った装飾の施された置物から、切っ先が半月を象った剣。アレス用なのか、先程彼が抱きしめていた狼の縫いぐるみはアレスと同じ美しいルージュの瞳だった。芸術性に富みながらも、自身には用途の分からない作品ばかりが溢れて玩具箱のようだとペルセポネは思う。そのどれかが、もしかしたらどれもが、魔法の道具だとしてもおかしくないのだなとも思った。アレスの言葉を鵜呑みにし、髪飾りの件を思い返すのなら、ヘパイストスは魔法使いの体であるのだから。違和感はないわよね、と小さく頷く。事実、彼は呪い(まじない)さえ操ると聞き及んだこともあるのだ。

不意にカタンとコップが置かれる音がした。

「ねぇねぇ二人とも、気持ち悪いんだけど」

向かいで大人しくしていた筈のアレスが呆れ気味に口にした。

「別にいいじゃん、素で話したってさぁ。畏まってったって俺はそのまんまの二人を知ってるし、お互いのことも話してるだろ?ペルだって兄貴が訛ってるの知ってるし、兄貴だってペルがヤキモチ焼きなの知ってるじゃん。だから普通に話そうぜ?」

ソファーに深く座り直しながら、大きく伸びをする。その、さも「堅苦しくて疲れる」と言わんばかりのアレスの行動に、苦笑しそうになった。そういえば昔から改まった席でもしてたなぁ、怒られてたけど。そんなことを思い出す。
けれど突然真摯な目で見つめるから、呼吸が一瞬止まった。

「俺は二人に仲良くなって欲しいんだよ。分かるだろ?」

拗ねたように口を尖らせて、アレスは言う。
言いたいことは分かるけれど、なんだかいつもより甘えん坊な気がするとペルセポネは思う。会う度に飽きもせず話す「お兄さん」が余程好きなのか、修理中に自分達に構って貰えなかったのが寂しかったのか。いや、両方かもしれない。はたまた自分の気に入った人同士は仲良くあってほしいという願望からかもしれない。いずれにせよ、可愛らしい理由には変わりないのよね。クスリと笑って、まだムスリとしてるアレスを見つめた。

今回、悲嘆にくれるペルセポネにヘパイストスを紹介してくれたのは何者でもないアレスだった。いつもだったら意地もはってしまうけれど、今日くらいお言葉に甘えさせて貰おうと、ペルセポネは自身を納得させる。それに、所詮湧いてくる好奇心には勝てないのだ。アレスの語る以上の、本物のヘパイストス神に興味がある。ふうと一息吐いた。

「ヘパイストスさま?私に構わずいつもの調子でお話し下さいませ。じゃないとアレス、またハデスさまのところで愚痴っちゃいそうなんですもの」

私会えないのにそんなの悔しいじゃないですか。
わざとらしくぷうと頬を膨らませれば、アレスは嬉しそうに頷く。半分の嘘と半分の本音を混ぜながらヘパイストスに目を遣れば、少しだけ驚いた瞳が次第に柔らかさを帯びてきた。

「貴女にまで言われたら…俺の負けやないですか」

ヘパイストスは一つ長い息を吐いた。

「へへへ、俺の勝ちー!」
「お前やなくてコレーさんの勝ちやろーが、ド阿呆」
「いてっ」

額をぺちりと叩かれたのにニコニコしているアレスが、微笑ましいというか馬鹿みたいで少し呆れる。やっぱり少し拗ねてたんじゃない。別にいいけど、心中でひっそり呟いた。

「私の事はペルって呼んで下さい。お気に入りの愛称(ニックネーム)なんです。あ、勿論コレーでも構わないですけど」

柔らかく笑みを浮かべてヘパイストスさんと言葉を紡ぐと、困った風に頭を掻いた。その姿にアレスの言葉が脳裏を掠める。

ーー優しさや好意に対して不器用で照れ屋なんだ。

嘘。絶対に嘘に違いないと思う。こんなに好意を分かりやすく態度で示せる人、見たことがない。もしかしたらアレスには近すぎて見えないのかもしれない。それはとても羨ましくて残念なことだけれど。
コツンと靴の響く音がして、ペルセポネは近づいてきたヘパイストスを見上げた。

「そやな…ペルちゃん、これからもよろしく頼むわ。俺は勿論、この阿呆もやけど」

そう言ってくしゃり、ペルセポネとアレスの頭を撫でた指は窓から射す陽光のように温かかった。

ああ、だからアレスはあんなこと言ったのね。目の前で顔をくしゃくしゃにして笑うアレスを見てペルセポネは考える。

ヘパイストスの指は私にとっても勿論魔法の指だ。無から有を生み出し、世界を作り替える力は摩訶不思議以外の何物でもないから。けれどアレスにとってはまた違う意味を持っている。例えば、私にとってはハデスさまとお母様がそうであるように、大好きな人からしかかけられないとても幸せな魔法をその指に秘めているのだ。
けれど、今私はハデスさまでもお母様でもないのになんだか幸せだったりする。ということは、ヘパイストスさんの指は私にもやっぱり魔法の指なのかしら?ただアレスほど魔法が強くかかりはしないけど、でも、私にとっても優しい指で心地好い温もりなのだ。

そう考えて、ペルセポネはちょっとした言い合いを繰り返す兄弟を見つめる。きっと私は羨ましさを抱きながらも彼等を知りたいし、仲良くなりたいのだろう。それでも、アレスに対する悔しさは忘れられないから。

「私もヘパイストスさんとお話したいんだけどなぁ」

そう言ってペルセポネは茶目っ気たっぷりに微笑んだ。



魔法の指



20120201 加筆修正