冷たい何かが額に当たる。死後の世界でも感覚はあるのかとフェルマーは思ったが、誰も知らないのだからこれが正しいのだろうとあっさり自己完結する。このことを教えてやれば、あの子は目を輝かせたりするのだろうかと自嘲しながら。彼女は、この類のことにはあまり興味がなかったとフェルマーは記憶していた。
フェルマーの現在の状態を睡眠状態と言ってもいいのかは疑問だが、いつまでも寝ているわけにはいかないとゆっくり目を開けると、術の光とはまた違う光がフェルマーの視界に飛び込んできた。

「あ、目が覚めたんですね」
「こ、こは……」

開けた視界の中に整った顔を覗かせる少女。その奥の天井は高く、一般家庭ではないと一目でわかる。天国にも貧富の差があるのか、それとも平均の生活水準が貴族レベルなのか。自分が生きているのかはわからないが、これからの人生は(推定)天国のことを調べていくのもいいかもしれない。そうして、数十年後かにやってくるフーリエとパスカルにいろんなことを教えてあげられれば満足だ。そんな風に考えて、フェルマーは少しなげやりになってみる。だってここには大切な妹たちはいないのだから。

「気分はどうですか?」
「……悪くはない」
「そう、良かった……。あ、今執事にお医者様をお呼びするように手配しますね」
「ん?」

執事、お医者様という単語に一瞬疑問を持つ。
どうやら(推定)天国でもやはり身分の差は存在するようだ。それと、(推定)天国には、病気や怪我も、存在するらしい。これではフェルマーの生前の世界とあまり変わらないように思えるが、ここは(推定)天国だ、生前は誰も知らない未知の地だ、フェルマーの想像と違っていても、まるで生前の世界のようでも、なんら不思議はないのだと受け入れる。受け入れの速さ、諦めの良さは、フェルマーが今まで生きてきた中で身に着けた処世術のようなものだ。

 少女がぱたぱたと広めの部屋を出て、しばらくしてよく似た顔立ちの青年を連れて戻ってきた。青年は少女を下がらせて部屋に入ってくる。少女はまた去っていった。

「目が覚めたようで何よりです」
「はあ」

いつまでも身を横たえているわけにもいかないからとフェルマーは身体を起こす。人と話すのだから、最低限、目線を合わせるべきだというのはフェルマーの持論だ。本来ならベッドの上に座ったままというのもやめたいところだが、身体を起こしたときに鈍い痛みがしたので大人しくしておく。先ほどの少女が置いてくれただろう濡れタオルも、額からはずし手に持つ。

「酷い怪我をしていましたからね。三日も目が覚めなくて、心配していました」
「私を助けてくださったのですか」
「ええ。僕の屋敷の近くで倒れていたものでしたから」
「そうでしたか。……助けてくださってありがとうございました」
「どうか気にしないでください。僕の街にいるからには、相応のもてなしをしなければなりません」

どうやらこの身なりのいい青年は領主、らしい。所作の節々に丁寧さを感じる。アスベルも騎士として作法や所作は身につけていたが、それでも是非彼の振る舞いを見習わせたいくらいだとフェルマーは感心する。
綺麗なブロンドを揺らし、青年はひとつ頷いた。

「どうやら怪我も回復してきているようですね、よかった」

三日も寝込んでいたと言っていたが、フェルマーの身体のこのえも言われぬだるさはそのためだろう。フェルマーは笑顔を浮かべている青年に礼をして、とりあえず状況を確認しようと切り出した。

「私はフェルマーと申します。失礼ですが、貴殿の名を伺っても?」
「ああ、そうですね。僕はクレイン・K・シャール。このカラハ・シャールの領主です」
「クレイン様。……どうやら私は故郷にいたはずが……失礼ながら、いつの間にやら聞き知らぬこの地に来てしまっていたようです。何かご存知ではありませんか」

名前を記憶して更に尋ねる。フェルマーには聞きたい事がたくさんあった。

――それにしてもまだ二十にも見えない、おそらくは妹だろう少女と、俺と大差ない年齢に見えるこのクレインという青年はいったいどんな人生を歩んでいたのか。
領主というからにはここ二、三年というわけにもいかないだろう。親から位が渡ってきたならその限りではないが、それこそどういう一家だ。揃って死後の世界にいるとは、おそらく想像を絶する次元なのだろう。俺も俺で平凡に暮らす一般人よりは随分早く死んでしまったが、と答えを待つほんの少しの間に脳を逡巡していく。

「そういえば……あなたは霊力野が異常なほど小さかったようですね。医者が言うところによると、日ごとに霊力野は大きくなっているようですが……。そういった事例は聞いたことがありませんが、もしかすると、それが何か関係しているかもしれませんね」

聞き覚えのないゲートという単語に目を瞬かせる。(推定)天国にはゲートという器官か何かが存在するのだろう。クレインの言葉ではそう読み取れる。そして、この(推定)天国の住人になったため、フェルマーにもゲートというものが形成されつつある、と。だが、それだと何かおかしい。クレインはフェルマーの身に起きているゲートに関する現象を全く知らないといった様子だ。
(推定)天国なんていう所に辿り着いたと思い込んでいたせいか、フェルマーは自分でも気づかないほど混乱していた。アンマルチア族自慢の頭脳も、あまり役に立たない。が、わからないことはとにかく質問すればいい。研究においても、わからないことは調べつくすというのが第一だ。

「あの、ゲートとはいったい何でしょうか」
「……失礼だが、記憶は、正常か?」
「ええ、生まれてから死ぬまで、きっちりと記憶しております」
「…………少し、待ってほしい。一から情報を整理しましょう」

クレインの反応から、どうやら彼にも予想外の質問だったらしい。クレインの言葉に従って口を開くフェルマーは気づかれないように小さく嘆息した。