「フェルマー!私、海に行ってみたいわ!」

突然、カラハ・シャール領主低のエントランスに、明るい声が響いた。

「……ドロッセル嬢、また突拍子もないことを」
「突拍子もなくないわ。フェルマーは知らないでしょうけれど、私はずっと海に行きたいと思っていたんだから」

窘めるようにかけた声に心外だと言わんばかりの返事が来る。うきうきと本で得た知識で想像するドロッセル嬢は全身で語っていた。連れて行かないのなら兄に言いつけてやる、と。めちゃくちゃと言ってもいいほど彼女に甘いこの屋敷の主ならきっと一つ返事で彼女の要望をきいてしまうのだろう。想像するだけで少しげんなりしてしまった。……けれど、不思議と俺も彼の心理は理解できてしまうのだ。多少のわがままはきいてやりたくなる。それが妹を持つ兄の真理なのかは専門外なためわからないけれど。

「……クレインがいいって言ったらな」
「ええ、ありがとう、フェルマー!さっそくお兄様のところに行ってくるわ!」
「危ないから走るなよ」

俺の返答に満足したのか、満面の笑顔で走っていくドロッセル嬢。走るなと声はかけたものの、聞き入れてくれた様子はない。この数分でどっと疲れた気がする。もちろんクレインが彼女のお願いを無碍にするわけがないので、今日の休日はなくなったも同然だ。振り回されているなと感じるが、これも兄の役目というやつだろうか。明るく元気なドロッセル嬢はちょっとパスカルに似ていてついつい俺も甘やかしてしまう。……俺も人のことは言えないかもしれない。

「ほっほっほ、やられましたね、フェルマーさん」
「ローエン。……見ていたなら止めてくれ」
「いえいえ、お嬢様の望みです。おそらくこの屋敷の者には止められないでしょう」
「だな」

クレインに仕え始めてから、もう二ヶ月が経った。ドロッセル嬢のかわいいお願いを断りきれないあたり、もう俺も立派なシャールの一員だろうか。いきなり現れた怪しい俺を受け入れてくれたカラハ・シャールという街は、シャール兄妹の人柄がそのまま表れている。俺の事情を知っているのはクレインだけだが、臣下の人たちも「クレイン様が信じるのなら」という体だ。もちろん、ローエンを筆頭に「怪しいことをすれば即お縄」という思考を持っているけれど。要は俺が裏切らなければいいだけの話で、俺を認めてくれる人たちも増えているのはありがたいことだ。

「さて、用意でもするかな」
「路銀は私がご用意しましょう」
「ああ、助かる」

丁寧な装飾のソファから腰をあげる。二階から「ありがとう、お兄様!」「気をつけて行くんだよ」という会話が聞こえて、日帰り小旅行は決定事項になってしまった。あまり遠くにも行けないから、行き先は一番近いサマンガン海停になるだろう。どうせなら砂浜に連れて行ってやりたかったかもしれない。もっと欲を言うなら、海ではないがユ・リベルテに。あの綺麗な街並みを見れば、きっと気に入ってくれるだろう。ありえない想像をしてしまって、楽しい反面、少し物悲しい。自分に宛がわれた部屋で使い古した剣を引っ掴み、抜いてみる。手入れの行き届いた刃には情けない顔をした俺が映っていた。



 馬車を手配し、ドロッセル嬢を乗せる。ホーリーボトルをふんだんに撒いた馬車に近づく魔物はいない。不測の事態にもすぐに対応できるように警戒しながら前の席に座るドロッセル嬢の話し相手をしていると馬車が止まる。どうやら港に着いたらしい。

「お手を、ドロッセル嬢」
「ありがとう」

先に降りてドロッセル嬢の手を取りエスコートする。騎士にはそういった心遣いも必要だと俺は勝手に思っている。ウィンドル王国の騎士団は軍隊を兼ねているから特に必要には駆られなかったけれど。
馬車はその場に待機させ、一応不審な人物がいないかを確認しながら、駆けて行くドロッセル嬢を追う。

「あまりはしゃぐな」
「いいじゃない、初めての海よ!」
「……階段を降りるか?少しだが海面が近くなる」
「いいわね、それ!行きましょう!」

いろんな積荷があるところの奥に階段があり、そこを降りるとベンチが二つ、置いてあった。柵がないため危険だが、さすがのドロッセル嬢もはしゃぎすぎて海にドボン、なんてことはないだろう。念のため際にしゃがみこんで笑っているドロッセル嬢に注意を払いながらベンチに腰掛ける。その足元に鳩が数羽歩いていた。

「フェルマーもこっちに来たらどう?」
「遠慮しておきます」
「いいから!」
「はいはい」

座ったばかりのベンチから強引に引き剥がされる。なんだかんだ言いなりになっているのは抵抗する気がないからに他ならない。こんなに嬉しそうな顔をされては連れてきた甲斐があるというものだ。
ドロッセル嬢の隣に並ぶ前に足元を探ってちょうどいい形の小石を手に取る。

「?石なんて拾ってどうするの?」
「まあ見てろ」

不思議そうにするドロッセル嬢に笑って、小石をスライドするように、遠くの方に投げる。一回、二回、と石が跳ねながら進んでいく。少し遠くなってしまったから確認は難しかったが、確認できた限りでも五段は固い。海面からそれなりのところに地面があるから、角度がついてしまって思うように跳ばなかったが、まあ上出来だろう。いわゆる水切りというやつだ。

「すごい!私もやってみたい!」
「だと思った」

目をきらきら輝かせるドロッセル嬢に苦笑する。頃合の石を見つけてやり、遊び方を教える。意気揚々と石を投げるドロッセル嬢にああでもない、こうでもないと指導する。昔、まだ十二くらいだったアスベルを連れて海に行ったときもこんな感じだった。師匠師匠とよく慕ってくれた教え子のように、何度やっても上手くいかない彼女を、その後ろで笑っていた。



 帰りの馬車の中で眠ってしまったドロッセル嬢を抱き上げて屋敷に戻る。屋敷の大きな扉を開けてくれたローエンはその様子を見て微笑ましそうに笑みを浮かべている。エントランスのソファでくつろいでいたクレインやドロッセル嬢を任せたメイドまで同じような顔をしているのだからまったくこの屋敷はつくづく彼女に甘い。まだ十五歳だから可愛いのも仕方がないかもしれないが。

「おかえり。楽しかったかい?」
「まあ、それなりに」
「ドロッセルの様子はどうだった?あの寝顔を見るとだいたい想像はつくけどね」
「たぶんその想像通りのはしゃぎようだったよ」
「そうか。ずいぶん楽しかったみたいだ」

くすくすと笑うクレインが俺を向かいのソファに座るよう促す。それに従って腰掛けると、すかさずローエンが紅茶を置いてくれる。香りのいいそれをすする。いい味だ。いつも思うのだが、日常の些細な気配りから派手な戦闘まで、ローエンは本当に出来た執事だ。「ご苦労様です」とウインクを落としていく茶目っ気あふれる執事に苦笑を返し、カップをソーサーに置いて一息吐く。すると前から「そうだ!」と何か得心がいったような声が上がった。

「フェルマー、今度は僕と一緒に行こう。海停じゃなくて、キジル海瀑とか」
「それってもちろん魔物を倒すのは俺の役目なんですよね?」
「当たり前だろう」

さすがにドロッセルを連れて行くことはできないけれど、僕なら多少剣の心得はあるからね、と得意げに笑うクレインについ頭を抱えてしまった。

「いい案だろう?」
「仕事は」
「前倒ししてでも休みを作るよ」
「すごいやる気だ……」

もちろん拒否権はないのだろう。クレインも結構強引に推し進めるところがある。加えて一度決めたことは梃子でも動かないほどの頑固者。諦めて大人しく従うに限るというのはこの二ヶ月で俺が学んだ処世術というか、処シャール家術というか、兎に角そういうものだ。

「約束だからな、忘れるなよ」
「御意に」

少しばかり面倒臭いが、楽しみだと思ってしまうのだから、やっぱり俺はこのシャール兄妹に絆されているのだろう。満足げに頷くクレインと、その後ろに控えたローエンの押し殺した笑い声に溜息を吐いて俺も微笑をこぼした。



After two months.