小ネタ | ナノ


0610 00:36

楊漸は酷く焦っていた。
それが何から来る焦りなのかは既に解らなくなっていたが、何かとてつもない大きな焦りであることは隠しようのない事実だった。
早足で劫斉の部屋へと足を進める。
補佐である木叉には何も言わずに、半ば飛び出すように執務室を出てきたから、今頃どうしたのだろうと焦りながら呆れているだろう。
木叉は変なところで器用だ。

すれ違った際に挨拶をくれた部下たちに軽く手を挙げ道を急ぐ。
楊漸の執務室からはいささか遠すぎる長い道のりが余計に楊漸の焦りを募らせていく。
天界でも滅多に人が近寄らない場所、辿り着いた劫斉が封印されている豪邸のような建物の玄関をくぐる。
いつ見ても一人で暮らすには大きすぎる気がする。
深呼吸すれば、不思議と焦りがこびりついた表情がいつもの笑みに変わった。
そして、劫斉が使っている一室の扉を開くことで楊漸は何もなかったかのように――いつもと変わらない、唐突な訪問を作り上げる。

「やあ」

内心の落ち着くどころかより酷くなる焦りとは裏腹に、普段通り読めない笑みを貼りつけて、楊漸は部屋の主に声をかける。
極めて明るい、そんな声で。

「……なんだ」

楊漸の突然の訪問にも動じることなく、部屋の主――劫斉は心底面倒臭そうに応答する。

「いやあ、君に会えないのが酷く退屈でね」
「俺で遊ぶなよ」
「酷いじゃないか。私がいつ君で遊んだんだい?」
「覚えがありすぎて逆に困る」
「おや」

くすくすと笑う楊漸に劫斉は小さく息を吐く。
劫斉に会えないことが酷く退屈だと言うのはあながち間違いではないのだが、それ以上に劫斉に対する言いようのない不安が募ったことが一番の理由だろう。
けれど楊漸は思いのほか単純なのか、呆れたように苦笑した劫斉を見ると、途端に妙な焦りも形を潜めてしまった。
楊漸は執務室からここまでの道のりで大きな不安に駆られたことを思い出す。

「あんた、仕事はどうした」
「私には優秀な部下がいるんだよ」
「……サボったのか」

後で木叉にゴマ団子でも持っていってやろう。
そう言って劫斉は楊漸に己の前の席を勧めた。
長らくこの場所に封印されているというのに多少の自由は許されているため、劫斉は時たま楊漸や木叉を訪ねることがある。
きっとゴマ団子は木叉にしか渡さないのだろうと考えて、楊漸は促されるまま豪華な白い椅子に腰掛けた。
真っ白のテーブルにかけられた上質なマルーンのクロースが楊漸の中であからさまな苛立ちを生み出していく。
何度ここに訪れても慣れることのない感覚に少しだけ眉を寄せる。

「どうした?」
「え……」

眉を寄せたのがバレたのだろうか。
驚いて気の抜けた声が出たが、僅かな音すら立てずに茶器を並べる劫斉は楊漸の方を見てすらいなかった。
ならばどうして。
質問の意図がわからず、楊漸は黙りこんだ。

「何に恐れている?」

口を閉じた楊漸に構わずに続ける劫斉の視線は未だ手元に向いたまま。
発せられた言葉にしばらく沈黙を作り、楊漸は声を上げて笑い始めた。

「はは……ははは、あはは!」
「……なんだいきなり、気持ち悪い」
「く、ふふ……ふふ、」

思えばいつだって劫斉は楊漸の心境を読み取っていた。
怒りであれ喜びであれ、悲しみであれ。
劫斉は、人の感情に敏感だった。
ここ数百年を共に過ごしたからか、楊漸に対して、それは特に敏感である。
恐らくは、今は亡き友、斉天大聖についても。

「どうして、君にはわかってしまうのだろうね」

焦りでも苛立ちでもない。
楊漸の根本的な恐怖を感じたのだろう。

「本当に、どうしたんだ。気味がわる――」
「君が、」

――い。
劫斉の言葉は続くことなく遮られた。
ぽつりと呟いた楊漸によって。

「君が、」

楊漸の表情はどこまでも、何も映していなかった。
いつもの底の見えない笑みでもなく、たまに見せる真摯な表情でもなく、ただの――無。

「君も、いつか大聖のように、消えてしまうんじゃないかと怖くなってね」

言い終えて、フッと笑みを作る。
いつもの、底の見えない笑みを。

「……馬鹿馬鹿しい」

吐き捨てるように言った劫斉がカチャリと音を立ててティーカップを持ち上げる。

「本当に、馬鹿馬鹿しい」
「……そうだね」

それがどういう意味だったのかを、楊漸は理解していなかった。
それでも自身の解釈で小さく同意を示し、頭上の黒いシャンデリアを仰ぐ。
他の色と混ざり合うような穏やかな黒を見上げれば、全てを、光すら吸い込むような黒が、楊漸の心の奥深くに溜まっていった。




部屋の内装が悪趣味すぎる。
とりあえず白と赤と黒を入れたかった。
解る人はすぐにわかってしまうあの方の三色。
そして藤代の中ではすでにドロドロとしてしまっています。
すっごくドロドロしてる。
真君が報われないようなそんな…。

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