目が覚めた。
 そうして一番に飛びこんできたのは見慣れない板張りの天井で、ああ私は相変わらず夢から醒めてないんだなと思った。
 数十分間布団の中でぼんやりしていたが、居候となる身で怠けていてはいけないと気づき、体を起こして和室を出た。
 事務所フロアには誰もいなかった。窓の外からさしこんでくる朝日が静かに室内を照らしていた。壁かけ時計に目をやると、時刻はもうすぐ八時になろうとしているところだった。
 榎木津さんはまだ寝ていそうである。さすがにこんな時間には和寅さんも戻ってこないだろう。
 冷蔵庫を勝手に漁って朝食の準備をしておくのも逆に迷惑かもしれないしなあ。それに和寅さんの方が私よりも料理上手だったし。昨日ご馳走してもらった夕食で証明されている。
 とりあえずソファに座ってどちらかが来るのを待っていようかと考えたとき、廊下の方から誰かがこちらにむかってくる足音が聞こえてきた。私は腰を下ろそうとしていた姿勢を元に戻して、扉に視線を移した。
 摺り硝子のむこうに黒い人影が止まったのが見えて、それは鍵を開けて中に入ってきた。てっきり和寅さんかと思って私は口の形を「か」にしていたのだが、実際に現れたのはまったく知らない人だったので驚きのあまり声が出ず固まってしまった。
 ひょろりとした体系の男性だった。前髪が長く、ほとんど目にかかってしまっている。
 だ、誰!? この人誰!?
 いや、それを聞きたいのは先方のほうだろう。
 鍵を開けて入ってきたのだから、彼はここの関係者である可能性が高い。年齢は私より少し上ぐらいに見えるから、さしずめ探偵社員といったところだろうか。
「あ」
「えっ」
「すすすすすみません僕ぁ榎木津さんちに女性が来てるなんて知らなかったものですから。いやあ、そうですかあ。はああ、和寅さんも追い出してですかあ。あの人もあれで三十五歳ですからねえ。まあ外見からはわからないですけど。いよいよ身を固める気にでもなったということですか。しかしまあいつのまに……えっ、でもていうか若すぎません? あの人たしかに女学生とか好きですけど、ちょっと危ない匂いがするんですけど」
 ――よく喋る人だな。慌てふためきながら、それでもよく喋っている。
 私なんかは逆に圧倒されてしまって、色々あらぬ誤解をされているというのになにも言うことができなかった。
 その時
「馬鹿者!!」
「うわっ」
「ひぃ」
 榎木津さんの部屋の扉が勢いよく開いて、家主が出てきた。
「ば、馬鹿者って知らなかったからしょうがないじゃないですかぁ」
 探偵社員の男性(仮)は半分泣きそうな顔でそう訴えた。
「そういうことを言ってるんじゃないって、このマスオロカ。彼女は僕の親戚だ」
「し、親戚!?」
 なにを言い出すのかと思えば、親戚だって!? いや、でも今後誰かに説明をする必要が生じたときそうしておいたほうが楽な気がする。いちいち昨日みたいな面倒でややこしてあまりにも非現実的な話をするよりもよっぽどいい。
 榎木津さんがじっとこちらに視線を送ってきていたので、話をあわせますよという意味をこめて私も彼の目を見返して頷いた。
「はあ、でもたしかに榎木津さんと似てる気がしますねえ。ほら、髪の色なんて光に当たると茶色に見えるところとかお二人とも一緒じゃないですか」
 私は髪染めてるけどな。
 ――よく喋るのに加えて、調子のいい若者である。
「僕のハハの弟の結婚相手の姉の子どもなんだ。似ているわけないだろう。やっぱりお前は馬鹿だな」
「え、そうなんですかあ? でもそれってほぼ他人じゃないですか。ていうか、どうして急にそんな遠い親戚の方がここに?」
「娘が上京してくるから慣れるまでここに住まわせてくれと頼まれたのだ」
「へええ〜榎木津さんも優しいところあるんですね」
「僕はいつだって優しいぞ! 神の慈悲だ!!」
「慈悲があるのなら僕のことをマスカマとかマスオロカって呼ぶのやめてくださいよ。ぼかあ最近自分の名前が本当に益田というのか疑ってしまうことがあるんですよう」
「ははははそれは愉快じゃないか!!」
「全然愉快じゃないです」
 探偵社員の男性(仮)――もとい益田さんがそうはっきり言っても、榎木津さんは声高らかに笑い続けていた。
 それで彼は諦めたようにため息をつくと、私のほうにむき直って「自己紹介が遅れてすみません。僕は益田龍一といいます。まあ、探偵見習いです」
「一詩織です。よ、よろしくお願いします」
「そんな奴によろしく願う必要などないぞ、サンノマエくん!」
「いやいや、親戚ぐらいちゃんと名前覚えてましょうよ榎木津さん」
 数字増えてるしな。
 思うに、榎木津さんは勝手に人にニックネームをつける御仁であるらしい。関くんとかマスヤマ・マスオロカとかひょっとしたら和寅さんも榎木津さんがつけているあだ名なのかもしれない。
「そんなことより、朝早くからなんなのだ」
「仕事ですよ探偵の仕事!!」
「どうせまたこそこそあとをつけてこそこそ覗き見しまわる恥ずかしい類の仕事だろう。そんなのは探偵の仕事なんかじゃない。何度言ったらわかるのだ」
「それ以外に浮気調査のやり方なんてありませんよお……」
 やっぱり益田さんは泣きそうな顔をしながら訴えて、それでも調査に必要らしい物をまとめて事務所を出ていった。
 ――じゃあ、いったいどんなのが探偵の仕事なのだ。
「フン、相変わらず愚かな奴だ」
どかりと椅子に腰かけて榎木津さんは言った。
 私はどう言葉をかけていいのか迷ったものの、助かりましたとお礼を告げた。
「助かった?」
 元々大きな鳶色の瞳をさらに大きく見開きながら彼は首をかしげた。さらり、と髪が頬にかかる。本当だ。日に透かすと茶色に見える。肌の色も驚くほど白いから、生まれつき色素の薄い人なのだろう。
「親戚だってとっさに嘘ついてくださったじゃないですか」
「ああ、それは昨日京極堂が」
「中禅寺さん?」
「昨日君が風呂に入っている間に電話がかかってきたんだ。当分はそれでなんとかすればいいと」
 そういえば、電話のベルが鳴っていたような気がする。
 榎木津さんはそれでもよかったのかと私は尋ねようとして、 野暮かもしれないと思ってやめた。
 すべてわかりきっていた上で、彼は事務所で暮らせばいい!と言ってくれたんだろう。多分。
「今日は朝飯を食べたら出かける!」
 急に弾んだ声を出した榎木津さんの表情はウキウキしていた。まるでスイッチでも入れ替えるようにコロコロと感情の変わる人だ。子どものようである。
「はあ、どちらにですか?」
「君の服を買いに行く」
「ふ、服?」
「いつまでも同じ物を着ているわけにはいかないだろう。ハイカラ趣味で僕は好きだが」
 着の身着のままで来てしまったので当然他に服はなく、私は昨日と同じ服装なのだった。
 たしかに新しい服はほしい。というか服だけじゃなく、足りない物はまだいっぱいある。下着、歯ブラシ、食器、あんまりお願いしたくないけど生理用品だって。思い出せないだけできっとまだなにかあるはずだ。
 ーーというかさすがに、あまりにも申し訳なさすぎる。一文無しを家に置いてくれて、やはりなにか別の形で対価を支払わねばならぬのではないか。
「え、榎木津さん」
「なあに?」
「その、なにか私にできることはありませんか」
「……質問の意味がわからない」
 端正な顔が少しばかり歪んだ。
「いや、その、こんなによくしていただいて、ありがたいんですけど申し訳なくて。たいしたことはできませんけど、掃除とか洗濯とかそういうことでもーー」
「それは君のやることじゃない。和寅の仕事だ」
 ばっさりと言われてしまい、二の句が継げなかった。
「君の仕事は」
「え」
「君がやってきたという未来の話を、僕に聞かせることだ!!」


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