「では今夜はお屋敷のほうで休みますんで」
「ほんとすみません……」
「一さんがお気になさるこたあございませんよ。先生の命令は絶対ですから」
 そう言って和寅さんは風呂敷包みを小脇に抱えて、探偵社から出ていった。
 ――探偵社で暮らせばいい。
 榎木津さんによる、そんな突拍子もない提案は京極堂に集っていた私と関口さんを驚かせたのであった。ただ唯一中禅寺さんだけは「また始まった」というような顔で、再び本を読み始めていた。
 とはいえ、答えは決まっていたようなものだった。
 今の私にはおそらく戸籍がない。戦後ということもあって、役所関係もごたごたしていそうだから現代と比べてそのあたりはゆるくなっているのかもしれないが、それにしたってこの世界の常識もないし、職もないし、今すぐ仕事を斡旋してくれそうな知人もいない。当然住むところもに当たりもない。
 そして問題だらけの中の一番の問題は、お金のないことだった。お金があれば、まあ、大抵のことはどうにでもなるだろう。
 私にとってここはまさに異界にも等しい。一文無しで外にほっぽり出されたりなんかしたら、たまったもんじゃない。
 結局私は二つ返事で了承したのであった。
 京極堂をあとにして、関口さんとも別れ探偵社に戻ってきたときにはすでに夜の八時近くになっていた。
 夜ご飯の支度をしてくれていた和寅さんに、ただいまと声をかけるでもなく榎木津さんは開口一番「和寅、今日からお前の寝場所はソファだ!」と言った。人さし指をびしりとつきつけながら。
「い、一体どういうことですかぁ……」
 彼は太い眉を八の字にし、困惑極まれりといったような表情を浮かべながら言った。
「お前の和室で彼女が寝るのだ」
 そうか。私は気づいた。部屋数がないのだ。
 普通のアパートやマンションよりは多いのかもしれないが、事務所フロアとキッチンとトイレとバスルームがあって、榎木津さんの私室と和寅さんが寝泊まりしている部屋も合わせれば、空いている場所はなさそうなものだ。
「ね、寝るって今夜はお泊りになるということですかい?」
「違う。住むのだ」
「す、住むう!?」
 和寅さんが首を忙しく動かして、私と榎木津さんを交互に見比べている。
「あ、あの私がソファで眠りますので。掛け布団さえあれば……」
 所詮、居候の身分である。贅沢なことは言うまい。ちゃんとした建物の中で眠れるだけ、本当にありがたいというものだ。
「和寅!! お前が早くはいと言わんから、お客様が気を遣われてしまっただろう!!」
「わ、わかりやしたわかりやした。私がソファで寝ればいいんでしょう。ただ、寝具が足りませんから今日は本家に戻って明日用意して持ってきます」
「それでいい。ようし、じゃあ、ご飯を食べよう! 君も食べなさい。この男はこれでいて、作る飯はまあなかなか美味い」
「は、はあ」
 この食事も榎木津さんたちの分なのではと思いつつ和寅さんを見ると、彼は諦めたように笑ってどうぞ食べてくださいというような動作をした。
そうして、一時間ほどたってから安和さんは行ってしまった。
 すっかりお風呂までいただいて、一気に静まりかえった事務所フロアで髪をタオルドライしているとなんだか変な気分になってきた。昨日までの私の日常はどこに行ってしまったんだろう。明日から私はどうなるんだろう。そんな不安を抱えながら、それでもお腹が空けば食事はするし、お風呂にも入るのだ。そして寝る。
 大きな窓の外に見える夜の神田の街は、きっと現代のほうがもっと明るいのだろう。
榎木津さんは眠ってしまったようで、彼の私室からは物音一つ聞こえてこなかった。
 なにがどうしてこうなったのか。わけがわからない。考えるだけ無駄なのか。
 私は中禅寺さんの言葉を思い出す。
 ――まあいずれは覚める夢とお考えになるのが一番都合がよろしいかと思いますよ。
 いずれ覚める夢ならば。なにをしても最悪死ぬようなことはないだろう。むしろ覚醒するきっかけになるような気もするが。
 だったら、やはり楽しんでやるのが一番だ。いつまで続くかわからない、この世界での生活を。
 私は大きな机の上の前まで行き、そこに置かれている「探偵」と書かれた三角塔を撫でてそっと笑った。


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