「ほう」
 中禅寺さんは一言そう言った。感情のよく読めない言い方だった。声音は平坦で、表情も変わっていない。
 ――実際のところ、私はただ本を買いにきた、それだけだったのだ。ただし、今の昭和の時代にはたして自分が読むのにむいている本が存在しているのかどうかがそもそもわからなかったから、専門家にアドバイスを求めにきたというわけである。
 新刊書店に行かなかったのは、そんな訳をとてもじゃないが話せないと気づいたのと、(神保町の古本屋に行かなかったのも同じ理由だ)昔の本屋さんは立ち読みをしているとハタキではたかれるという話を思い出したからだった。都市伝説かもしれないが、それで躊躇ってしまったのだった。
「なんというか、ここでの暮らしも、その、長くなってきて、ようやく落ち着いたとでも言いましょうか。そうしたら本が読みたくなってきて」
「元々読書は好きだったということかな」
「そうですね。小さいころから。正直、この本で溢れてる空間とかとても心地いいです」
「それはよかった」
 ――あ、ちょっと笑った気がする。
「榎さんはいつもカビ臭いだの狭苦しいだの煩いからなあ。嫌なら来なくたっていいんだ。どうせ昼寝しかしていかないんだから」
「ああ」
 まあたしかに、ここは昼寝をするのには絶好のスポットだと思う。中庭に面していて日当たりがいいし、街中とは違って静かだし。そういえばこの間も気持ちよさそうに微睡んでいたな。畳の上に直接寝転がって体が痛くないのか不思議だったけれど。
「中禅寺さんのおススメの本を教えていただきたいのです」
「そうだなあ……僕は本であればなんでも読むからなあ」
「なんでも読むんですか」
「読む。古文書でも料理本でも赤本漫画でも読む。君の読書傾向から考えて、僕が何冊か選んでおくという形をとった方がいいかもしれないね。普段はどんな本を読んでいたんだい?」
「小説ですね。谷崎潤一郎、太宰治とか。あと、ミステリー……探偵小説も好きですよ」
 現代作家の名前は出せなかったので、それらの名前を記憶をたどって出してみた。
「ふむ。メジャーよりは、どちらかと言えばマイナーな作家がいいのかな」
「そちらの方がありがたいです」
 どうせなら、この時代に行かなければ目が通せなかったようなものを読んでおきたい。谷崎潤一郎や太宰治なんてメジャーどころは、帰れたところで書店の本棚に普通に並んでいるのだ。
「わかった。探しておくよ。また近々店に来なさい。そうだ、その間――」
「なんだここにいたのか!!!」
 その時、大きな声が中庭の方から響いてきて中禅寺さんの言葉を遮った。
 声を聞いただけで、もう見ずとも誰だかわかった。きっと中禅寺さんもそうだろう。私が言うまでもなかったかもしれないが。
 声の主は、榎木津さんだった。


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