陽炎の君 | ナノ
さよならまたいつか


夕方近くまで宮島を歩きまわっていた私たちは、再び在来線とフェリーに乗って広島駅まで帰ってきた。
駅から歩いて五分ほどのところに今日泊まる旅館はある。食事のついていないプランだったため、構内では常に行列が絶えないと評判のお好み焼き屋さんで早めの夕食をとってから、ロッカーに預けていた荷物を持って外に出た。
すでに日は落ち、信号や建物の明かりばかりがまぶしい。違う土地にいても、このような景色は地元と変わらないのかもしれないなと思う。
ホームページで見た旅館の看板を目印に探しながら歩いた。二人分のキャリーバッグがアスファルトの上をゴロゴロと転がる音が夜道の中で嫌に響きわたっていた。
外観は少々こぢんまりとしていたが、中へ入ると深紅の絨毯が目に鮮やかなロビーが広がっていて思わず感嘆の息を漏らした。旅館というよりは、なんだかホテルに近い印象を受ける。

「お二人は恋人なんですか」

チェックインを済ませて仲居さんに案内されながら部屋へむかっていたとき、そんなことを聞かれたので私はぎょっとした。徐々に頬へと熱が集まっていくのがわかる。思わず顔を手で覆いそうになった。
私はなにも言うことができずにただ黙って、ちらりと隣を歩く三成くんを見た。慌てている様子もなければ、恥かしがっている様子もない。普段通りの口調で「まだ友達です」と答えていた。あらあらとか、まあまあとか、逆に仲居さんのほうが照れたような声がそのあとに聞こえてきた。
部屋の扉が開けられると、六畳ほどの和室が現れた。中央にはちゃぶ台があり、座布団も敷かれている。床の間に飾られた朝顔の掛け軸が夏らしく、四季へ対する細やかな心づかいを感じた。
入浴中に布団の用意をしておくので大浴場へ行く前に電話をかけてほしいということと、ゆっくりしていくよう告げてから、仲居さんは去っていった。
荷物を部屋の隅に置いた私たちはちゃぶ台を挟みあって座り、アメニティのお茶を入れて飲んだ。温かい緑茶は喉を流れると、体の隅々までしみこんでいくようだった。私は小さく息をついた。
そういえばこんなに歩いたのも久しぶりかもしれないと軽く太腿を擦っていたら「明日はどうするんだ」という三成くんの声が飛んできて「は」と気の抜けた返事をしてしまった。歯の隙間から空気の抜けていくような響きがあった。

「は、じゃないだろう。原爆ドームは修学旅行で行ったから、他にはどこかないかと」
「じゃあ広島城は? ここからそんなに距離もないけど」
「わかった。あとで道調べておく」
「お願いします」

軽く頭を下げつつも、明日か、と心の中でゆっくり唱えた。それから昼間に宮島で見た白昼夢のことを考えた。しかしつい数時間前のことのはずなのに、どこか霞がかってぼうっとした印象しか残っていない。まるで磨りガラスのむこうの景色を見ているようだった。
この閉鎖的な空間に、三成くんと二人きりでいることが私はなんだか息苦しくなってきていた。落ちつかない。全身がぞわぞわとする。心臓を素手でなでられたみたいな感覚がした。
お風呂に行こうかと堪りかねて彼に告げた。彼がそうだねと言って座布団から静かに立ち上がったのを見たあと、私も太腿に力をいれた。
*
綺麗にそろえて並べられた二つの布団が目に飛びこんできて、嫌でも体温が上がるのを感じた。私たちはまだ友達だ。
三成くんは先に戻ってきていたようで、食い入るようにじっとニュース番組を見つめている背中があった。数日前に起きた女子中学生の殺人事件について犯人が捕まったという報道がされていた。物騒な世の中だなと思っていると、まったく物騒な世の中だとこちらに気づいているのかいないのかよくわからない彼の独り言が聞こえてきた。
続いて話題は、芸能人夫婦の間に第一子が誕生したことへと移っていった。殺人事件のニュースのあとすぐに、人が産まれたニュースを見せられるのはなんだか不思議だ。高校生のときに読んだ古事記の一節によると、人間は一日に千人死に、千五百人のこどもが新しく産まれるらしい。

「ただいま」
「ああ、おかえり」 

テレビ画面からこちらに顔をむけた彼が水を飲むかと聞いてきたので、短く頷いた。透明なグラスにミネラルウォーターが注がれてさしだされる。私は一口飲んでから

「今日は楽しかったよ。ありがとう」

と言って布団の上に腰を下ろした。

「私のほうこそ急に誘ったようですまなかった。だが、そう思ってもらえると嬉しいものがあるな。感謝する」

礼を礼で返されてしまい、次になにを言えばいいのかわからなくなった。視線が泳ぐ。テレビからは相変わらずアナウンサーの声が聞こえていた。
言いたいことも、言わなければならないことも山ほどあった。それはずっと前からかもしれないし、つい最近になってからかもしれなかった。
いつまでも目を背けているわけにはいかない。心の底から誓ったはずだ。今日のことを。
私はテレビのリモコンを手にとると赤い電源ボタンを押して、彼の名前を呼んだ。冷たく張りつめた空気がその場を満たし、中学生の家族旅行で訪れたスキー場の記憶が蘇ってきた。真夜中のゲレンデ。光源はないはずなのに不思議と明るかった。今にも降ってきそうなくらい一粒一粒がはっきりと見える星空と、ずっと先まで続いている雪景色がそうさせたのだろう。空気は澄んでいて、恐ろしいほどしていた。

「話をさせて。答えさせて」

私に、と口にした瞬間、両肩を掴まれた。そのまま布団に体を押しつけられる。かすがの言った「詩織は危うい」という言葉がふと頭の中に蘇ってきた。
腹のあたりに重さを感じて、馬乗りをされていると思った。もしかしたら金縛りにあう感覚というのはこれに近いのかもしれないとか、それにしても三成くんがこのような行動に出るとはまったく想像もしていなかったなどと呑気なことを考えていたら次第に彼の顔が近づいてきたので

「ちょっと待って」

慌てて胸を押しかえした。するとひどく傷ついたような顔をされた。世界じゅうのなにもかもから拒絶を受けたような反応だった。

「ごめんなさい。そんな顔をさせるつもりはなかったの。答えを三成くんに示すまではで
きないと思っただけなの。絶対ならないと。だから、聞いてほしい」

懇願するように。信心深い少女が早朝の教会で片膝をついてマリア像へ祈りをささげるような気持ちで。 
沈黙は長くもあり、けれど短くもあった。三成くんの手がそっと両肩から離れる。ごめんと小さく謝られて、腹部に感じていた圧迫感も消えさっていった。
深く呼吸を繰りかえしながら私は起き上がった。

「本当は嬉しかったんだ。告白されたとき。今ならわかるよ。嫌われてるんじゃないかって不安だったから。きっと私は、三成くんにそばにいてほしかったんだと思う。昔から、なに一つ変わらず。それだけを望んでいた気がする」

すべてを言い終えたとき、にわかに三成くんの右腕が膝の上から浮いた。そのまま脆いガラスでも扱う優しい手つきで手をとられて、甲に口づけを落とされる。おとぎ話に出てくる王子様ですら霞んでしまうほど滑らかで洗練された一瞬の動作だった。唇の触れた部分がじんわりと温かい。
どう反応しればよいのか困っていた私にむかって

「もう寝よう。明日に備えて」

と三成くんは言った。黙って首を縦にふってから私は洗面所まで歯を磨きにいった。再び部屋に戻ると電気の消された薄ら明かりのなか、すでに布団へ入っている三成くんの姿が見えた。邪魔をしないように私も隣の布団の中に潜りこんだ。
おやすみと告げた彼の声は尻切れトンボになっていて眠そうだった。すぐに健やかな寝息が聞こえてきた。
明日の天気はどうだろうか。二人の男女が広島の街を歩いている風景が見える。小学生ではなく、もっと成長した二人の男性と女性が。それはいつまでも鮮明な映像のままで、霞みがかりはしなかった。
明日、三成くんは帰りの新幹線で東京に帰ってしまうけれど、どこか安心した気持ちに包まれて私は深い眠りに落ちた。

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