陽炎の君 | ナノ
屋上は青春だ


前田先生の言葉どおり、まだ卒業して半年すらたっていない校舎を歩きまわっても取りたててなにかを感じることはなかった。校門をくぐったときと同じだ。
ところどころが黒ずんだ壁。陽光を受けて光るリノリウムの床。教室にはすべて鍵がかっていた。歩くたびに平たい音が鳴る来客用のスリッパと、外から聞こえてくる蝉の声以外に音はなく、おそろしく静かだった。まるで学校が一つの大きな死体でさえあるようだ。
「迷いのない足どりだな。目的地でもあるのか」
「屋上に行こうと思って」
「冗談だろう。暑さで死ぬぞ。そもそも屋上は立ち入り禁止じゃ……」
すぐうしろから伊月くんの声がしていた。声音でわかった。乗り気ではなく、呆れてもいるらしい。
「別に入れないわけじゃないし。鍵も簡単に開けられるから」
「おい、詩織。立ち入り禁止というのは、入れないからではなく、入ってはならないから立ち入り禁止なんだ」
「三成くんて昔から頭が固いよね」
いや頭が固いとかいう問題ではと続けていたものの、伊月くんは急に諦めたようになってため息をついた。もう好きにしたらいい、という彼なりの合図である。肯定的に捉えているよりもむしろ、諦めている場合がほとんどだったが。
屋上に近づくにつれ、埃の臭いが強くなっていくのを感じていた。一年を通してまったく掃除をされることのないそこは、ありとあらゆる不健康なものを塊にしたような場所だなと私は高校生のときから来るたびに思っていた。
外へ出るには大きな鉄扉を開ける必要があった。髪の毛につけていたヘアピンを一本だけ抜きとって鍵穴にさしこんでから適当に何度か回転させる。やがて鈍い音が聞こえてきたため、ドアノブを掴んだ手に力をこめながら右側にまわした。
重々しい響きをもって扉は開いた。隙間から漏れだしてきた夏日がまぶしくて両目をつぶった。少しくらりとした。
「すごいな」
「まあね」
屋上はそこそこ広い。
アスファルトで作られた地面の上に、転落防止用とするなら些か心もとなく感じる短めの柵が立っていた。排水管や貯水タンクなんかも見える。
延々とどこまでも続く青空をとても近いと感じられる穏やかな午後だった。用心しつつ柵へ寄りかかって眼下の景色を眺めていると、まるで王様にでもなった気持ちがした。
同じく柵へ体を預けていた三成くんが改まった口調で
「一つ聞いてもいいか」
 と尋ねてきた私は訝しみつつ
「なあに」
「なぜ私と一緒に来たんだ」
「それはおもしろそうと」
「違うだろう」
「え」
「だって、詩織、学校が嫌いだっただろう」
私は憮然として彼の横顔を見つめた。すっきりした顎まわりと、高くてよい形の鼻を持つ小奇麗な顔だ。口元を固く引きむすび、静かな表情を浮かべて佇んでいる。
「別に嫌いだったんじゃないよ。つまらないとは思ってたかもしれないけど」
どこかつまらないという感情がまるで影のようにして、私のうしろをぴったりと張りついていた。友達といても、学校行事へ参加していても、部活動をやってもいても。けっして消えることなく延々と。
「なぜだ」
「なぜって……」
思わず言葉に詰まった。 
わかるとか、わからないとかじゃない。なにも考えないようにしようと決めていた。これでいいんだ。どうしようもないことだ。私たちは単なる幼なじみだ。そう自分へ強く言い聞かせ、真実を恐れた。
いっそ今日も逃げてしまおうかと思い、曖昧に誤魔化そうとしたら三成くんにこちらをむかれて心臓が止まりそうになった。彼の黒々とした両目から「話せ」という強烈な意志を感じた。視線だけで訴えられているようだった。
すっかり観念して、それでも私は視線を下の景色に走らせながら言った。
「三成くんに嫌われた気がしてたの。高校に入ってから急に冷たくなったように感じて。誰かと一緒にいても、なにかをやっていても、必ずそのことが頭をちらついてた。落ちつかない時間がだんだん増えて、気づいたら学校をつまらないと思うようになってた」
真下にあるグラウンドでは野球部が練習をしていた。ボールのバットに当たった音がここまで響いてくる。
白状してしまうと少し胸の中の風通しがよくなって、私は再び三成くんのほうをむいた。
ひどく驚いている表情だった。地球があと三日で滅亡すると聞かされた人みたいだと思った。しかし、思春期だったのだという短い呟きが聞えてきて、私は確かめるようにして思春期と繰りかえした。
「ずっと詩織が好きだったことを、高校へ上がる直前に強く意識するようになった。でもそれを考えだした瞬間、どう接していいのかわからなくなった。接して、とかものすごく青臭く思われるかもしれないが」
ごめんと言って三成くんは丁寧に頭を下げた。俺は自分のことばかり考えて、詩織を苦しめていたことなどまったく気づいていなかった。高校三年間を返してやることはできない。許してくれと頼んでも、なんて勝手な人間だと軽蔑されるかもしれない。それでも許してほしいのだ。詩織に。
つらつらと述べられていく言葉はたしかに耳には届いているはずなのに、どこか別の国の言語を話されているようですんなりと頭の中に入ってこなかった。
本当に嫌われていると思っていた。挨拶をしても生返事で、次第に目すらまともにあわせてくれなくなった。その理由にはまったく心当たりがなく、もしかしたら存在自体が鬱陶しいのだろうかとも考えていた。
沈黙が私たちの間に降りつもる。額に湧いた汗がたらりと垂れて頬に一本の線を描き、首元へと滑っていった。その瞬間、私は気持ちが揺さぶられるのを感じて
「話してくれてありがとう」
と告げていた。
それを聞いた彼は急に体を起こすと
「怒らないのか」
とまるで信じがたいものを見る目でこちらを凝視してきた。
「怒るだろう、普通。三年間ずっと悩んでいたことのすべてが、私のつまらぬ照れ隠しのせいだったなんてことを知ったら。それに気持ち悪かっただろう。ずっとただの幼なじみだと思っていた相手が」
「じゃあ三成くんは私がそんなことを考える人間だと信じていることになるね」
まったく想像の範疇をこえていたらしいその言葉に、彼は喉に餅をつまらせたような顔をした。瞳が左右に激しく動いている。彼のそんな様子を目にするのは初めてで、なんだか逆にこちらが申し訳なくなってしまった。
やがて三成くんは覚悟したように
「違う。そうじゃない。ただ、不安で不安でたまらないのだ。東京に行って、だが忘れられず、夏になって帰ってきた。詩織に会いたかった。私はまだ詩織のこと愛している」
三成くんの真剣な表情が私の心をぎゅっとしめつけた。それと同時に、とてつもない罪悪感にも襲われた。
怖くても、おそろしくても、聞いてあげていればよかった。そうしたら彼だって、悩みつづけることはなかったかもしれないのに。本当に自分ことばかりを考えていたのは私のほうだった。
私はもう一度ありがとうと口にすると
「今はなんて言ったらいいのか正直わからない。驚いてて。でも、三成くんの気持ちに正面からむきあわなきゃいけない義務が私には必ずある。だから時間をください。月並みの返事で悪いけど」
「私には十分すぎるほどだ」
そう言って笑った彼の顔を、私はずいぶんと久々に見たような気がした。

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