それはいつのころからだっただろうか
あれは多分、彼女だ。先輩の彼女だ。
むちゃくちゃに走りまわりながら、頭の中でそれだけを強く思っていた。本当はもっと違うことを考えればいいのに、そもそも何も考えないのが一番だとわかっているのに、どうしてもできなかった。
先輩は優しい。だけど、なんでもない女の子と手をつなぐなんてことは彼は絶対にしない。それは特別な相手にのみ許される行為だ。
どうしようもなく死にたいと思ってしまった。ひどく自分が惨めだった。それぐらいショックと衝撃が大きすぎた。
だけど、と思う。私は今までなにをやってきた? 自分の恋を成就させるためになにかやってきたか? してない。なにもしてない。ただ、じっと先輩を静かに慕いつづけていただけだ。それだけだ。でも、それじゃあ、ストーカーと同じじゃないか。
私はとんだ馬鹿野郎だ。今までそんなことにも気づかなかったなんて。
なんで好きな人からそんなことを頼まれなくちゃいけないんだ? ふざけんな、と言って逃げだしてしまいたかった? ふざけていたのはどっちだ。先輩を恨むなんてお門違いにもほどがある。私がもしちゃんと「好きです」の四文字だけでも言えていれば、きっと先輩だって石田くんとつきあっているふりをしてくれだなんて馬鹿みたいな頼みごとしてこなかったはずだろうに。余計に傷つくこともなかったはずだろうに。
「野田!!」
「石田、くん……」
突然名前を呼ばれ、腕を強く掴まれた感触がしたのでふりかえってみると、石田くんが肩で大きく息をしながら背後に立っていた。どうやらビルからここまでずっと追いかけてきてくれていたらしい。
彼はうしろをむいた私を見て、なぜか翡翠色の瞳を戸惑ったように見開くと
「泣いているのか?」
「え」
言われて初めて気づいた。自分の視界が滲んでいたことに。両頬が温かいもので濡れていたことに。そうか、私は泣いていたんだ。
「ここから少し行った場所に喫茶店がある。しばらくそこで休んだほうがいい」
「……うん。わかった。ありがとう」
今度は私が石田くんのあとについて歩いた。その間ずっと私の腕を掴んだまま離していなかった彼の右手は、冷たくも温かかった。
*
連れていかれた喫茶店は知る人ぞ知るというようなところで、今日が休日だということを忘れるほどがらんとしていて静かだった。
そこで私は多分、一時間近く泣いていたと思う。泣きながらひたすらなにかを言っていた気がする。でもそのなにかはもう覚えていない。
「どうだ、少しはおちついたか」
「……多分」
「急にエスカレーターを逆走して走りだすものだから驚いたぞ。まさかそこまで動揺するとは思っていなかった」
「それは――」
ちょっと待って。そういえばあのとき石田くんは一度私を止めようとしていなかったか。なにかを見つけて、でもなにも見なかったようなふりをした。そのなにかとは、先輩と彼女がデートをしているところだ。それを彼は私の目に入れまいとした。なぜ。
「ねえ」
「どうした」
「どうしてあのとき、なんでもないなんて言ったの。石田くんは」
石田くんは知ってたんじゃないの。
「私が先輩のことを好きだってこと、知ってたんじゃないの。だから慌ててごまかそうとした。違う?」
石田くんは黙ってアイスコーヒーが並々と注がれたグラスを手にとると、一口飲んだ。男の子らしい大きな喉仏がそれにあわせて上下する。
それから一言
「ああ」
と言った。
鈍感なくせに。いつも人の気持ちなんて無視してふるまっているくせに。絶対に気づくはずないだろうって思ってたのに。
「私、そんなにわかりやすかったかな」
「いや、違う。私と貴様が同じだったからだ」
「同じ?」
「ともに半兵衛様を慕っていた。たとえそのベクトルが互いに別の方向をむいていても。
だが私は気づいてしまった」
もう一度コーヒーに口をつけると、今度はたっぷりと間を置いてから
「好きになってしまったのだ。お前を」
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