初めてのキモチ
玄関を上がってすぐの階段を登り、二階へとむかった。一番手前の部屋の扉が開けられる。
「なにも、ない」
人の部屋を見た第一声がそれなのもどうかと思ったが、ほんとに石田くんの部屋にはなにもなかった。いや、厳密に言うと、たしかに勉強机やらベッドやら本棚はあるのだが、石田三成という人間を象徴させるようなプライベートな物がなにも存在していなかったのである。必要最低限で生きているような石田くんらしいとは思ったものの、やはり寂しい印象を受けた。カラーリングも全体的に白っぽい。病院かよ。
「今の時期だとこんな感じだろう。好きなものを選べ」
クローゼットを開けた石田くんがポイポイとベッドむかって洋服を投げる。本当にこだわりがないんだなあと私は思いながら
「ううん、男の子の服装なんてどうしたらいいか正直わかんないんだけど。あ、でもこのホワイトデニムとかにあうじゃないかな。石田くん足細くて長いから」
手にしたホワイトデニムを隣にいた石田くんの腰にあててみる。思ったとおりだ。あとはこれに黒いポロシャツとカーディガンでも着ればいいだろう。
「本当にいいのか? たやすく決まりすぎではないか?」
「石田くんは難しく考えすぎなんだよ。それに見た目だけはかっこいいんだから配色さえ間違えなければ、よっぽど奇抜な服じゃない限りなに着てもにあうと思うよ」
「…………」
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
「変な石田くん。まあいいや。とりあえず決まったし私帰る――」
そう言いかけたとき、部屋の扉を控えめに叩く音が聞こえた。はい、と石田くんが答える。
「忙しいところごめんなさいね。野田さんカレーはお好き?」
「カレーは、普通に好きです、が」
「ああ、よかったわ。実は作りすぎちゃったの。今日のお礼に食べていってくれない?」
「え、でも、私……」
「食べていったらいい。手伝ってもらってなにも返さないのは私も心苦しい」
もう一度帰ろうと言いかけたのを石田くんは遮るようにして、私の方を見ながらそう告げた。
早く帰りたい。それが一番の本音だった。別に石田くんの家に長居するのが嫌だとか、そういうわけじゃなかったけれど、自分という存在がここにはひどく場違いな気がしたからだ。
でも
「今から用意するから少し待っていてね」
と嬉しそうに顔を綻ばせる石田くんのお母さんに私は頷くしかなかった。
*
半熟卵が上に乗ったシーザーサラダとほかほかと柔らかい湯気を立てるカレーライス。木製のスプーンで白米とルーを同時にすくって口の中に入れる。まろやかな舌触りと、あとにほんのりと口の中に残る優しい甘さが食欲をそそってくれるようなカレーライスだった。
「おいしい」
「本当に?」
「はい、とても。これ隠し味入ってますよね。多分、ハチミツとリンゴかな……」
「わかるのね。やっぱり女の子はいいわあ。三成はいつもなにも言ってくれないから困ってるのよ」
「母上の作られるお料理はいつも絶品ですから、それに逐一言葉など必要ないのです」
「それ、すごく石田くんらしい答えだなあ」
*
結局おかわりまでしてしまったと思いながら私は駅まで歩く。送ってくれると言うので右隣には石田くんがいた。
日はとっくに沈み、暗い夜道を等間隔に立っている街灯の光がぼんやり照らしていた。立派な門構えをした住宅が多いので家々の明かりはあまり道路には漏れてきてはいなかった。
「お母さん、喜んでたね」
自分ではそういうつもりはなかったのに、存外乾いた声が出た。最後に残ったのは罪悪感だった。後悔とか場違いとかいう気持ちじゃなくて。
石田くんのお母さんに対する罪悪感だ。彼女は自分の息子が恋人を――つまり私を連れてきたことを快く歓迎してくれているようだった。だけど本当は違う。私と石田くんはつきあっているふりをしているだけだ。ともに先輩のために。私は好きだから。石田くんは尊敬しているから。
今までだって学校じゅうのみんなを騙していたことになるわけだけだけれど、こんな気持ちを感じることはなかった。多分、嬉しそうにしていたからだ。喜んでいたからだ。石田くんのお母さんが。
石田くんも思っているところがあるらしく
「ああ」
と答える声はどこか上の空だった。
もしかしたら。もしかしたら、傷つけられているのは私たちなんじゃなくて周りの人なのかもしれない。私たちが周りの人を傷つけているのかもしれない。
息がつまりそうになるのを感じながらふと仰ぎ見た夜空には、見事な満月が浮かんでいた。
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