石田、こっちを向いて。 | ナノ
気高い人


それは放課後に起こった。
ぼんやりと上の空で廊下を歩いていたら、突然誰かに左腕を掴まれて教室にひっぱりこまれた。
さすがの今の私でも冷静な判断に基づき悲鳴を上げようとしたが、口を塞がれてしまう。誰? 不審者? 学校の中に?
最悪の場合を想像して、心拍数が徐々に早くなっていく。ふうふうと抑えられている唇から苦しい息が漏れる。
そのときすぐ耳もとで

「安心して、僕だよ。詩織」

と声がした。先輩だった。
私はまた別の意味で心臓が止まりそうになったものの、少なくとも自分の正体を明かしたところで助けを求めて叫ばれることはないだろうと先輩は考えたのか口を塞いでいた手を離した。そして左腕も解放してくれた。
私はふりかえると、なるべく平静を装いながら

「先輩、なんで……」
「君にこんな無体なことをして本当にすまないと思ってる。でも僕、最近君に避けられてるみたいだからこうでもしなきゃ捕まらないかなって」

気づいていたのか。いや、気づかないほうがおかしいのだ。先輩ぐらいの人だったらなおさら。
私が過去の己の行動を恥ずかしく思ってじっと黙っていると

「話は全部三成くんから聞いたよ。その上で君に謝らなければならないことがある」
「謝る、こと……? 先輩が私に?」
「最初から全部嘘だったんだよ。
三成くんは最初から君のことが好きだったんだ。そう、偽装恋愛をする前からね。ある日、彼に相談されたんだ。つい目で追ってしまう女生徒がいるらしいんだけど、どう声をかけたらいいかわからないって。実に彼らしいと思わないかい?」

私はなにを言われているのか理解できなかった。だから同意を求められても否定することも肯定することもできなかった。
先輩の話はまだ続く。

「でもそれには二つ問題があった。詩織が僕を好きだったこと。そして僕も君が好きだったこと」
「え……」
「君のことは中学校のときから憎からず思っていたよ。現状に甘んじることなく、常に新しい道を模索し続けているその姿勢がとても輝いて見えたんだ」

――私は中学生のとき、図書委員の副委員長をやっていたことがあった。そのときお世話になったのが、当時生徒会長を務めていた先輩だった。生徒会はともかく、うちの中学生の方針としては委員会の委員長は必ず三年がやることになっているが、実際に主な業務に携わってもらうのは副委員長というわけのわからない暗黙の了解的なルールがあった。多分、受験を意識していたものと思われるが。面倒なことは普通みんなやりたがらない。それで平等になるようジャンケンで決めようということになったのだが、私は見事負けてしまった。
各委員会の副委員長は毎月第三水曜日の放課後に行われる定例会に出なければらない。自分たちがどのような活動をしているかや、問題点、今後にむけての目標などを生徒会役員も交えて話しあうのである。私と先輩はそこで初めて言葉を交わした。そして私は、生徒のために学校をよりよくしようと力を注いでいる先輩を見ているうちに恋をした。

「でも、僕には両親が決めた婚約者がいたんだ。僕はどうしても君に好意を伝えることができなかった。君の好意を受け入れることができなかった。また呉服屋の暖簾を掲げるために。先方は古くからの地主のお家でね」
「じゃあ、この間雑貨屋さんの前で一緒にいたのは……」
「うん、僕の婚約者さ」

言葉を絞り出すようにしてゆっくりと尋ねた。
先輩は天秤にかけたのだ。私と自分の夢を。私は負けた。ご両親が営んでいた呉服屋を再開させるという夢が買った。先輩らしい賢明な、いや、人間として正しい判断だと思う。

「だからさすがに君が同じ高校に受かったと連絡をもらったときは驚いたけれど、三成くんから相談を受けていい機会だと思ったんだ。僕たち三人のために。すぐに偽装恋愛の計画を立てた。始めから終わりまで。この間、詩織が見た光景も計画のうちだった。最後の重要な計画だったんだ」
「つまり、二人して私を騙してたってことですよね」

思わず非難するような口調になってしまった。
先輩は菫色の瞳を一度大きく見開いたあと、深く頭を垂らしてから

「すまない、申し訳ない、なんて返す言葉がないのはわかっている。三成くんに聞いたけれど君があんなにまで悲しむだなんて思っていなかったんだ。なんて、言い訳でしかないよね。僕は君に酷いことをしてしまった。君の心を土足で踏んづけた。試した」

そう先輩が謝っている声を聞きながら、私は一方で別のことを考えていた。
私は、どうしたいんだろう。どうすればいいんだろう。
先輩、と私がほぼ無意識に口にすると、彼はゆっくりとこちらを見た。銀色の髪が重力に逆らってゆらりと浮き上がる。

「私、本当に先輩のことが好きだったんですよ」
「うん」
「先輩を追いかけてこの学校に入ったんです。苦手な勉強だって死に物狂いで頑張って」
「うん」
「でもわからないんです。あの日、先輩の婚約者さんを見た日。たしかにショックをうけました。死にたいとも思いました。今もまだ上手く立ち直れていません。でも、石田くんを拒絶することもできないんです。きっと、酷いのは私のほうです」

頬にふと温かいものを感じて触れてみると、涙だった。私は泣いていたのだ。
先輩はそれを見咎めたらしく、ちょっと眉をひそめたあとこちらへ近づいてきた。そして私の手首を掴むと自分のほうに引き寄せた。彼の華奢な見た目からは考えられないぐらい強い力で。

「ええと」
「ごめん、少しだけこのままで」

先輩の腕の中は金木犀の香りがした。彼の猫のような柔らかい髪がちょうど首筋に当たってくすぐったかった。息づかいがすぐ耳もとで聞こえた。

「詩織、いいんだよ。もういいんだよ、自由になって。僕も歩き始めるから」

そう言った先輩の声は穏やかなのにどこか悲しさも感じられた。
私はずっと長い間、先輩に背中を撫でられながら子どもみたいに泣きじゃくっていた。

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