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カタリーナ氏の憂鬱


「詩織、少し話があるからこっちに来なさい」

妙に慎重な様子で父が私にそう言ったのは、夕食を終えてあとのことだった。私は流しの前に立って食器を洗っていた。
思いきり蛇口から水をばしゃばしゃと出してお皿を洗う作業はそれなりに楽しい。気分がすっきりとして、ストレス発散になる。私は声だけを背後のリビングへ飛ばして

「ちょっと待ってて。これが終わってから」

と言った。
食器乾燥機の電源ボタンを押すと同時に、熱していた薬缶の注ぎ口から真っ白い湯気が出ていることに気づいた。慌てて火を止めた。ペアのマグカップにそれぞれティーパックとインスタントコーヒーを入れてお湯を注ぐ。トレーの上へそれらと、砂糖壺に小ぶりのスプーンも乗せて両手に持つとリビングまで運んだ。机の上へ置く。コーヒーをいすに腰かけている父親の前に出しながら、自分は紅茶の入ったマグカップを取って

「話ってなあに」
「明日からお前に新しいお母さんができるんだ」

彼のむかい側に座ったとたん、そんなことを告げられた。
最初は言われたことがよくわからなかった。新しいお母さんができる? 明日から?
私がものごころついたときにはもう母親はいなかった。だから私は写真の中でしか彼女の顔を知らない。病気だった。元来、体の弱い人だったそうだ。父はこれまでに私を男手一つで育ててくれた。
ほかほかと湯気を立てるマグカップを見つめる。飴色の液体の表面には自分の顔が薄く写っていた。心なしか瞳に生気が感じられないような気がした。
依然としてうまく事態は読みこめないままだったが、私はゆっくりと

「再婚するってこと?」
「ああ」
「私、そんなこと一度も聞いてない」
「聞かれなかったからな」
「どうして今までなにも言ってくれなかったの」
「詩織がまた泣いちゃうんじゃないかと思って」
「……もう子どものときの話だよ」

一度だけ、たった一度だけ母親が恋しくて泣いたことがある。クリスマスの時期だった。私はひどく幼くて、プレゼントはなにがほしいかと尋ねられたとき「お母さんがほしい」と言った。そのとき父はものすごい顔をした。怒っていたのではなくむしろ悲しげでいて、なんだか福笑いが見事に失敗してしまったときのようなまとまりのない表情をしていた。
父は、言った。

「ごめんな。そう簡単にお母さんはプレゼントできない」
「なんでできないの」
「……ごめん。ごめんな」

謝りつづけながら、彼は自分の腕の中に私を閉じこめた。そのまま痛いほどに抱きしめられて、頭がぐらぐらした。
どうしてこんなことになっているんだろう。なんで父はこんなことをしているんだろう。あんなに悲しい顔をして。私のせいか。私のせいだ。
そう思うと、急に目頭が熱くなってくるのを感じた。口から変にか細くて小さな声が出た。私が泣いていることに気づいた父は、さらに抱きしめる力を強めた。
それからの記憶はない。気づけば布団に寝かされおり、朝日がクリーム色のカーテンを透かして暖かな光を床に落としていた。
幼い私はきっとわかっていなかったのだ。自分よりも父のほうがずっと、母の死を重く受けいれていたということ。母をどれだけ求めていたかということ。あの日、私が父へ放った言葉以上に彼を傷つける言葉なんてこの世には存在しない気がする。
以来、私が母親についてなにか口を開くことはなかった。

「一つだけ教えて」
「なんだ」
「今でもお母さんのことを愛してる?」

彼はちょっと意外だなという顔をしてみせた。それから「ああ、もちろん」と頷いて

「母さん以上に素晴らしい人はいないよ。だけど再婚してもいいと思える相手に出会ってしまったんだ。父さんを許してほしい」

私は首を縦にゆるゆると動かした。きっと、これは許すとか許さないとかいう問題じゃない。

「私も嬉しいよ。再婚おめでとう、お父さん」

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