アネモネ | ナノ
34


「目が覚めましたか」

突然声が上から降ってきたので、驚いた私は起き上がると首をぐるぐるとしてあたりを見まわした。
若い女の人が立っていた。髪をさっぱりと一つにまとめ、糊のしっかりときいた膝下までの白衣ワンピースを着ている。看護婦さんだった。つまり、ここは病院ということになる。そう思えば、天井だけじゃなくて壁や床までが真っ白に統一されていることや、パーテーション、小型テレビや冷蔵庫など、いままで意識の外に放りやっていた病室の姿が次第に立ちあらわれてきたような気がした。

「ああ、まだ安静にしててください。体に障りますよ」
「あの、ここはいったい……」
「ここは琵琶湖O病院ですよ。先生はじきに意識が戻るだろうとおっしゃっていたけど、一週間も眠りつづけたままで。でもよかった」

彼女は近づいてくるとゆっくり私の両肩に触れてベッドに寝かした。

「どうして私は入院なんかしてるんでしょう」
「覚えてないんですか? 大事故だったのに」「大事故? いや、まったく」
「野田さんは学校の校外学習に行っていたの。だけど帰り道の途中でバスが衝突事故にあっちゃって。一週間だから9月15日のことね。他のクラスメイトの子たちも何人か軽い怪我をしていて、野田さんの場合は事故の衝撃で琵琶湖へ転落していたから発見するのが遅れてしまったわ。だけど目立った外傷もなければ、精密検査でも問題はなかったから大丈夫よ。
先生に伝えてくるからそのまま寝ていてくださいね。ご両親にもそう連絡しておきます。なにか持ってきてほしいものとかあるかな?」

持ってきてほしいものは特にないが、お腹が減へったと告げると看護婦さんは軽くほほえんだ。笑うとえくぼのできるかわいい人だった。
再び仰むけになり天井へ視線を送る。目がすっかり覚めた。覚めてしまった。戻ってきてしまった。とほうもない夢を見ていた。戦国時代にタイムスリップする夢を。
たしかに夢のはずだったのだ。自分の頭の中で作り上げた。三成様、大谷様、島様、みんな。それなのにどうして、彼の腕の感触も彼の声も忘れられないんだろう。初めて名前だって呼んでくれたのに。私には彼らが本当に実在した人物としかもう思えなかった。
大きな窓ガラスのむこうには琵琶湖の一端と住宅街ばかりとが眼下に広がっていた。
*
事故からちょうど一年がたった。私は高校三年生になっていた。そんななか、ふと私は琵琶湖に行ってみようと思い立った。今日の日づけを見て。
両親がまたなにかあったらどうするのと止めたが、人生でそうなにかがあってはたまるものかと突っぱねて一人で出かけた。電車を乗り継げば二時間くらいでつけるはずだった。
琵琶湖は、大きかった。私はゆっくりと湖岸を歩いた。
事故のことは結局いつまでたってもなに一つ思い出せなかった。無意識のうちに脳が拒否をしているのかもしれない。
あのときとは違って、近くで見た琵琶湖は残念なことに少し汚くもあった。ゴミが浮いていたり波の動きにあわせて海藻がうようよと漂っている。調べたところによると場所によって景観がまったく違うらしい。
風の強い日だった。前に進もうにもうまく進めず、髪が乱れて鬱陶しかった。スカートがめくれそうになるたびに慌てて裾を押さえた。
少し疲れてきたのでアスファルトの上にじかに腰かけた。すぐ足元を琵琶湖が波うっている。
延々とどこまでも続く湖を見ていると、妙にしんみりとした気分になってきてしまった。周囲からは家族づれやカップルたちの会話が聞こえてくる。楽しそうで、幸福そうで、それなのに私だけがどこか取り残されてしまったように一人でぽつんと座りこんでいる。時間が止まったみたいだ。一年前から。
もしかしたら失恋したあとの気持ちというのはこんな感じかもしれないなどと思っていると

「詩織か? 詩織だろう」

頭上から声が降ってきた。低くて、鋭さもありながら安心を与えてくれる。聞き覚えがありすぎるくらい知っている声だった。
私はほぼ反射的に視線を上げていた。

「三成、様……?」

なんで。私の頭の中に一番最初に浮かんだのはその言葉だった。なんで、どうして、彼がここにいる。
病的なまでに白い肌。前髪に特徴のあるプラチナブロンド。翡翠色のつり目。まっすぐ通った鼻筋と薄い唇。懐かしい香り。見れば見るほど三成様にしか見えなかった。いや、三成様だった。
彼はシワ一つない白いシャツの上に黒のニットカーディガン、そして紫色のスキニーパンツをはいていた。高級そうな革靴も見える。鎧でも着物でもなく、ちゃんと洋服を着ていたのだ。急に彼が目の前に現れたことももちろんだが、私はそれにも驚かされた。
聞きたいことなんて山ほどあった。でも口を情けなく開けたそのままで私はなにも言えない。

「鳩が豆鉄砲を食ったような顔だな。相変わらずの阿保面だ」
「し、しょうがないじゃないですか!! だって、突然、そんな……」

二度と会えないと思ってたのに。つぶやいた声は震えていて、風に攫われていく。

「だが、こうしてまた会えた」

三成様はそう言うとしゃがんで私の手をとって握った。優しくもあり力強くもあった。

「戦国時代からタイムスリップしてきたんですか」
「違う。今の私はこの時代で生まれ育った私だ。前世の記憶とでも言えばいいのか、とにかく戦国時代のことはもう過去のことになっている」
「はあ」

わかるようで、わからない説明だった。三成様は私のようにタイムスリップしたわけではなくて、同じ現代で生きてきた人間ってこと? 産まれてからずっと洋服を着て紙おむつをして粉ミルクを飲んでジュースを飲んでファーストフードや冷凍食品を食べて絵本を読んでテレビを見てゲームをして携帯やパソコンにも触って車や電車にも乗ってそれこそあげきれないあたりまえの現代生活を送ってきた人間ってこと? 嘘だろう。

「ちょっと待ってください。おかしくありませんか」
「なにがおかしいんだ」
「私、ちゃんと帰ってきてから調べたんです。でも豊臣秀吉はやっぱり病死してたし、関ヶ原の戦いでも松永久秀なんて名前見かけなかった。東軍が勝利していて、西軍は負けていた。これって矛盾してませんか」

退院した私が家に帰ってきてからまず一番最初にしたことは、歴史の教科書をたしかめることだった。勉強机のキャビネットの中にそれは入っていた。
五奉行の一人で豊臣政権を存続させようとする石田三成と家康との対立が表面化し、1600(慶長5)年、三成は五大老の一人毛利輝元を盟主にして兵をあげた。対するのは家康と彼に従う諸大名で、両者は関ヶ原で激突した。
天下分け目といわれる戦いに勝利した家康は、西軍の諸大名を処分し――
もちろんこれは、私が事故にあう前となに一つ変わっていない内容だった。記述も当然同じだ。秀吉が殺されただの、松永久秀が黒幕だっただの、石田三成と徳川家康が共闘しただの、謎に満ちた巫女の存在がなどということは決して書かれてなど書かれていなかった。そもそも書いてあるわけがなかったのだ。なのに、なぜ……

「仮説を立ててみたのだが」
「仮説ですか?」

パラレルワールドというやつだな。初めて会ったときに「時間だけでなく、空間も超えてこちらにやってきてしまった」とお前も言っていたはずだ。
ある一つの世界を一本の線で例えてみるとする。平行世界がもし存在するならば、そのような線が横に延々と並び続けていると考えればいい。私がかつて生きていた世界の線と、今生きている世界の線は違うのだ。
だから私の過去の常識は通用しない。その世界で脈々と語り継がれてきた歴史こそが、そこに住む人間にとってはすべてなんだろう。前世の記憶を持って生まれる人間など皆無に等しいからな。
彼はおおよそこのようなことを言った。

「信じられません。そんなこと」
「私が冗談をつくはずないだろう。だいいち、お前のことを知っている理由はどう説明する」
「……たしかに」

思わず納得してしまった。だが、他の説明の仕方がわからないのも現実だった。「事実は小説よりも奇なり」という言葉は本当に便利である。

「必ず会いにいくと誓ったからな」
「わっ」

三成様が再び立ち上がったかと思うと、握っていた手をひっぱった。自然と三成様のほうへ体が吸いよせられていく。
そうだ。私はこれが欲しかった。理性でも本能でもなくて、きっと運命的に求めていた。
あのときの腕の感触が蘇ってくる。今度は私も彼の背中に手をまわせた。

「会えてよかった。ずっと、探していた。この世に生を受けてから、ずっと」
「私もです。私も三成様を探してた。会いたかった」

見つけてくれてありがとう。そう呟こうとしたのに涙声になってしまってうまく言えなかった。
まるで希望のようなまばゆい太陽の光が、私たちをいつまでも照らしつづけていた。

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