アネモネ | ナノ
33


古来より櫛には不思議な力が存在するらしい。魔除けの力があり、自分の身代わりとなってくれるのだ。
私が投げた櫛は鶴姫ちゃんが贈られたものだった。三成様に四国へ連れていかれたあの日、帰り際に「なにかあったらこれを。私の霊力もかかっています。きっと詩織ちゃんの身代わりになって守ってくれるはずですよ」と彼女は言って私の手の上へ落とした。純粋でまっすぐな笑みを浮かべながら。
私は私がいなくなればいいと思った。けれどそれでは意味がなかった。なにかを捨ててなにかを得るなんてまっぴらごめんだ。理想論と馬鹿にされるかもしれないが、それでも私は全部を守ってみたかったのだ。
*
おそろしく自然にまぶたが開いたように思う。けれど気分はどこかふわふわとしていて、浮ついた感じがあった。手足に力を入れてみるものの、動けと命令している脳内にたいして体が動くことはない。首だけはぎこちなくだが言うことを聞いたので状況を確認するためにまわしてみると、見慣れた銀色の髪が視界の端に映った。

「目を覚ましたか」
「三成、様……」

今一度よく部屋の景色を見てみれば、そこは佐和山城にある自室だった。格子状になっている天井。黄土色をした土壁。一面畳張りの床で、空間も無駄に広い。開け放たれた障子からは穏やかな陽光がさしこみ、床の間の前に置かれていたスクールバッグを照らしていた。

「私、どれくらい眠っていました?」
「まる三日だろうな」
「三日も……」

思わず絶句した。どうりで体が思うように動かないはずだ。
三成様は薄紫色の着物をまとって座っていた。顔の所々の傷や火傷の軽いあとと、袖の奥に薄い布で巻かれた両腕がちらりと見える。それでも辛そうにしている感じはなく、ごく普段どおりの様子だった。
三成様も無事らしく、私もこうやって呑気に寝かされているということは松永久秀の脅威は取りのぞけたということであろうか。考えてみても無論、わからない。私には記憶がいっさいないのだから。
私は慎重な言い方で

「あの、松永は……」
「消えた」
「消えた?」

それは成仏したということかと尋ねてみても、三成様は静かに「わからん」と言って首を横に動かしただけだった。
どうやら松永のふりおろした刀が飛んできた櫛を二つに割った瞬間、例の爆発が起きて危うく三成様と徳川様も巻きこまれかけたという。すんでのところで逃げ出した二人が周囲を見渡してみたら、松永は忽然と姿を消しており、私は地面に倒れふしていたそうだ。なにがなんだか謎のみが残るままであったけれど一段落ついたと見切った彼らは、ひとまず佐和山城へとむかった。
三成様と徳川様は改めて互いに折り合いをつけ、二度と私を偽わるなという条件のもと和平が結ばれた。ただ、関ヶ原に布陣していた彼ら以外――真田様や黒田様、伊達様や柴田様ほか名だたる武将たちは戦線を勝手に離脱されたあげく放置の憂き目をくらわされたことに憤慨を禁じえなかった。数時間前まで次々と佐和山城へ押しかけては理由と謝罪を求めていたが、誰もが一様に松永久秀の名前を出したとたん黙りこんで帰っていったのだ。
彼は最後に、これから天下をどう治めていくことになるかは知れないが私が表に立つことは二度とないだろうと言って話を終えた。
情報量が多すぎて脳の処理が追いつかない、というのが第一の感想だった。本当に松永久秀という地縛霊は消滅したのか。かれの魂は現世から常世へと無事に行きついたのか。

「そういえばお前に文が届いていた。伊予の小娘からだ」
「え、鶴姫ちゃんからですか?」

今ちょうど思い出したとでもいうように三成様は長方形に折りたたまれた紙をさしだしてきた。受けとって端からゆっくりと開いていく。ところがその中身は見事なくずし字で書かれていたので

「よ、読めないです……」
「はあ」

盛大に大きなため息をはかれる。そうかと思えば手紙を手の中からするりと抜かれ、朗々とした声で読みはじめた。

「詩織ちゃんお元気ですか? 私はとっても元気ですよ! キャハッ!! ……忌々しい。前半は飛ばすぞ」
「そうですね。そうしたほうがいいと思います」

それは違和感どころの問題ではなかった。三成様が持つ鋭く低い声と、彼がまとっている雰囲気とに鶴姫ちゃんの文面がまったくあっていない。さながらこの世の終わりと表現するべきか、うっかりすると地球が丸ごと一個吹き飛んでしまいのではないか。

「お前に急ぎ伝えたいことがある。伊予に来てほしい。あとは取るにたらないことだった。文でも姦しい女だ」
「伝えたいことってなんでしょう」
「書かれていなかった。知りたければ来いということだろう」
「行くんですか」
「……任せる」
「え」
「お前あての手紙だろう。好きに決めればいい」
*
前回と同様、陸路を進んでから堺で船に乗って瀬戸内へと漕ぎだした。壮大なアスレチックのような船の群れがやがて見えてきた。
一年ぶりだ、と思う。彼女の屈託ない笑顔に私は救われたのだった。心をすっかり渡してあげられる人なんていないと信じていた。できるわけがないと信じていた。でも、今は違う。

「詩織ちゃん! 来てくれたんですね!!」
「はい、お久しぶりです」

あいかわらずおかわいらしいお顔と声を上げながら、鶴姫ちゃんは地面を蹴って
三成様の存在は完全に無視だ。この子はやっぱりすごい。
私は彼女の腕の体温を腰のあたりに感じつつ

「伝えたいことがあると手紙で聞きました。どういうことでしょうか」
「ああ、そうです、大変なんです! 一大事なんです!!」

一大事。もしかしたら松永久秀のことかもしれないという直感が頭の中を駆けぬけていった。三成様が言ったとおり「消えた」だけなのか。ただ消えただけなのか。
鶴姫ちゃんは私の腰へまわしていた腕を解くと、次いで両手をつかんだ。ぐいっと顔も迫ってきて彼女の猫のような形の瞳がすぐ近くにあった。

「限界が近づいているのかもしれません」
「限界って?」
「詩織ちゃんがこの世界にいられる時間のことです。それがもうほとんど残されていないんですよ」

どういうことだと思うと同時に、私はその言葉の意味を察した。つまり帰る時間がきたということだ。平成に帰る。


「数日前に大きないくさがありましたよね。その日を境にして、詩織ちゃんの影がどんどん薄くなっているようなんです。前まではあんなに強く感じられていたにもかかわらず。だから占ってみました。詩織ちゃんは本来この時代にいるべき人間ではなかったんですよね。いてはいけない。消えてしまうでしょう、いずれ。
明日の子の刻までが限界だと思います」
「なんだと……!」

私よりも三成様の声があたりに響きわたったのが先だった。ひどく狼狽していて、怒りの色も滲んでいた。
きゃあとか細い悲鳴が聞こえたかと思うと、目の前に立っていたはずの鶴姫ちゃんの姿がは消えており、代わりに三成様の荒く息をはく唇が見えた。その唇はすばやく動いて

「貴様は私を裏切ると言うのか! 貴様だけはと信じていたのに!!」

ガクガクと肩を揺さぶられる。そのあまりの激しさに脳震盪が起こりそうな気がした。思わず私は彼の胸を強く押しやりながら

「ちょっとやめてくださいよ! 裏切るとか、裏切らないとか、わけがわかりません。説明してください。私は三成様に一度だってそんな思いを抱いたことはないです。ありえない」
「貴様は帰るんだろう。ここより先の時代に。平成とかいう時代に。それが裏切りなんじゃないか! どうしてわからない!!」

このとき私はたしかに思ってしまっていた。帰りたくてしょうがなかったはずなのに、今はまったく反対のことを考えている。三成様を捨てて帰れるものか。三成様のそばにいたい。ずっとこの世界で――
急にこちらが黙ってしまったからか、三成様も口を閉ざすと一歩うしろにさがった。少しだけ開けた視界に鶴姫ちゃんの姿がようやく目に入ってきた。彼女はスカートや袖をぱたぱたと手で払っており、もしかしたら三成様に突きとばされていたのかもしれないと申しわけなく感じた。
彼女は言った。むっとした表情を消したあと、晴れやかな笑顔で。

「私がお話できることはこれだけです。詩織ちゃん、あなたは本当に不思議な力を持っていた。あなたが未来を変えたんですよ」
*
「落ちつきましたか」
「……ああ」

太陽が西に傾き、やがて沈んだ。
三成様は舟べりにもたれていた私の隣へやってきて同じように体を預けながら

「帰るのか」

と聞いた。
頭上には煌々と光を放つ月が浮かんでいて、海原を気の遠くなるほど遠くまで照らしていた。ただ、静寂だけがあった。

「帰るんでしょう。帰されるのほうが正しいかもしれませんが。だけど私、直前まで自分がなにをしていたのか覚えていなくて。もしかしたら死んでるのかも」

思わずそう軽口を叩くと、三成様がすごい形相でこちらを睨んできたので慌てて「冗談ですよ」と言った。

「心残りはみなさんへのあいさつをしそびれたことに尽きますね。特に大谷様と島様は。それから徳川様も」
「家康なんぞとしゃべらなくてもいい」
「どうして怒ってるんですか」
「怒ってなどいない」
「いいや絶対に怒ってる」

一年も一緒にいて、彼とこんな砕けた調子で話をしたのはもしかしたら初めてじゃないかと思った。遅すぎたのかもしれない。私たちは。気づくこと。気づいてあげること。
けれど時間は待ってはくれない。こうしている間にも刻一刻と別れは迫ってきている。

「きっと、もう二度と会うことはないでしょうね。今までお世話になりました。楽しかったって言ったらそれは嘘になるかもしれないけれど、三成様たちに出会えてよかったです」

なんだか卒業式に交わすあいさつみたいになってしまっている。どうして私は肝心なときにこんなことしか言えないんだろう。

「……少し待っていろ」
「え」

石田様は急に踵をかえすと、甲板から船の中へ入っていってしまった。
ひどく静かだった。さざめく波音だけが聞こえた。
やがて戻ってきた三成様の手の中には、小皿のような平たい陶器が一つ握られていた。よく見るとなにかの液体も入っている。

「なんですかそれ」
「今から一味神水をする」
「イチミシンスイ?」

なんだそれは。聞いたことのない単語に私は首をかしげた。シンスイという響きから考えるに、おそらく謎の液体は水であろうが、それ以外まったくわからない。

「神に誓う儀式だ。本来であれば、同盟や一揆など結ぶ前に行うものだがな。まあこれが一番てっとりばやい。
よく聞け。私はまだ貴様が帰ることに納得したわけではない。だがどうしても帰らなければならんと言うなら、今度は私がお前に会いに行く。必ず。それを神に誓おう」

月明かりのもと、三成様の皿に唇をゆっくりとつけていく姿が神秘的なまでに私には美しく映った。かすかに上下をする喉仏すら特別なものに見えてしまう。

「お前も誓え。私の迎えを信じると」

目の前に小皿をつきだされる。まだ状況がよくわかっていなかったが、言われるまま手にとって飲んでみると鼻の奥をものすごい速さで駆けぬけていくような感覚が襲ってきてびっくりした。これ、水じゃない。

「お酒じゃないですか」
「水がなかったんだ」

微妙な味わいが舌の上にちりちりと残った。
そういえば、と思う。松永久秀のことがあってそれどころではなかったが、私は三成様に告白を受けていたじゃないか。返事をまだしていないじゃないか。

「あの、三成様。私、一つ思い出したことがあって。
あんなこと言ったけど本当は帰りたくなんかないんです。いつまでもここにいたいんです。三成様がいなきゃ、きっと生きてる意味なんて今の私にはない。私は三成を愛してしまったから」

なにか大きな力に突き動かされるように。
たしかに私たちは遅すぎたのだろう。でも後悔だけはしたくないと思ったのだ。
本当はずっと前からわかっていたのかもしれない。島様に指摘されるまでもなく。ただ認めてしまうのが怖くて、目を背けつづけていた。
だけどそれは大きな間違いでしかなかったんだ。
海から視線を離した三成様はこちらを見つめた。ふいに彼の体が私のほうへと覆いかぶさってきて、腰へ手がまわされた。
においがした。甘くて、優しい。とても安心できる香りがする。
私はこの瞬間のためだけに自分が生まれてきたのではないかとすら思った。

「みつ――」
「もうなにも言うな。……ありがとう詩織」

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