アネモネ | ナノ
28


「頭を冷やしてくる」と言ったものの、はたしてどこに行こうかと困った私はしょうがなく自室に戻ることにした。
まだ午後の明るいひざしを受けている障子をゆっくりと開けて部屋の畳を踏んだ。しっとりとした冷たさが足の裏を通って体じゅうに流れていく。
私はそのままずっと歩いていって隅まで行くと、壁に背を預けてずるずるとまるでなにかに引きずられでもするように畳張りの床にこんだ。あらゆる力が抜けきっていた。
スカートに包まれた膝を抱えて私はただぼんやりと部屋の中を眺めた。
最初こそ他人行儀にあふれていたここも、すっかり私の雰囲気がしみこんでしまったように思う。いや、むしろ私の方がこの世界に慣れてしまったのか。
中央には敷きっぱなしの布団があって、床の間の前には紺色のスクールバッグが置いてある。そういえばしばらく中身を開けてやっていないことを思い出した。歴史の教科書や資料集などが入っていたら便利だったのに、実際その中にあったのは筆記用具と空っぽのプリントファイルと携帯電話だけだった。勉強道具はどこへ行ってしまったのやら。そんなに不真面目な学生生活を送っていた覚えはないのだが。
はあ、とほぼ無意識にため息が漏れる。なんだか頭を冷やすどころではなくなってきてしまった。
ちょうどそのとき

「詩織、いるのであろう」

と障子のむこうから呼びかけられた。低くともよく通るその声は大谷様のものである。
私は少し間をおいてから

「どうしました?」
「入ってもよいか」
「はあ、どうぞ」

ゆっくりと障子が開いていく。いつも通りふよふよと浮遊する乗り物に胡座をかいた彼の姿が目に飛びこんできた。

「ずいぶん腐っているようだが」

部屋の四隅に膝を抱えて座っている私を見てのことか、大谷様はそう言った。腐っている、という表現は今のどんづまりした状況に困りはてて途方にくれていた私の様子を上手く表現しているな、などとどこか他人ごとのように思った。
彼は静かに障子を閉めると私の前までやってきた。乳白色の瞳が私をじっと見つめる。それはなにかを私の口から言わせようとしているようだった。まるで拷問だ。
私は放心状態に苛まれながらぼんやりと彼の名前を呼んだ。

「大谷様」
「なんだ」
「大谷様」
「だからどうした」
「三成様はどうやら私のことが好きみたいなんですよ」
「お主、いまさらそれに気づいたのか」
「え」

いまさら、だって? いまさらそれに気づいたのか? じゃあ大谷様は知ってたってことなのか? なんで? どうして?
ぐるぐるぐると疑問が私の頭の中を駆けまわっては怒涛のように過ぎさっていく。混乱は深まるばかりだ。聞きたいことが多すぎてなにから話せばいいのかわからなかったし、そもそも今の私はただ空気を求めて口を動かすのだけで精一杯だった。まるで水槽の中にいる金魚のように。

「……あの、それは知ってたってことですよね。だったらいつから知ってたんですか」

私はやっとの思いでそれだけを言った。言えた。自分の声が少しだけ震えているのがわかった。

「主が毛利に攫われたとき、か……あいつ自身は今でも己が抱えている気持ちがなんなのかわからずにいるだろうが」
「ちょ、ちょっと待ってください。それってどういうことですか。大谷様は三成様から聞いてたんじゃないんですか。私のことを」
「我はなにも聞かされてはおらぬ。三成を見ていればわかることよ。むしろ今までなにも気づいていなかった主のほうに驚かされたくらいだ。思いのほか鈍感だったのだな」
「そんなこと生まれてから一度も言われたことないですけど」
「それは、言われたことにすら気づかないほど鈍感だった、ということではないのか?」
「今思いましたけど大谷様ってけっこう性格悪いですよね」

鈍感、という部分にあきらかにからかいの声音が入っていた。私は少しムッとしながら言いかえしたものの、しかし大谷様は気にすることなく続けた。

「毛利の城に単騎で乗りこんでいった。それはほかならないあやつの意思だった。我は主にそう言ったはずだ。わかるだろう? やつが、やつ自身がお前を選んだということが」
「……わかりませんよ、そんなの。わかるわけないじゃないですか」
「なぜだ」
「だって、そんなの信じられない。私は彼に好きになってもらえるような理由なんかないから」

私はこの時代から400年も先の平成からタイムスリップしてきたなんていううさんくさい女で、おまけに巫女だという。未来変えられる不思議な力もあるという。彼はそんな私に対して深く疑いを持っていたはずだ。そうして私は彼に迷惑しかかけていない。
それなのにどうして三成様は私を思ってなんてくれているのか。

「理由、じゃないだろう」
「理由じゃない?」
「三成にとって主は深い海の底から自分を引きあげてくれる存在だった。それがお主だったのだ。ただ、それだけだ」
「……やっぱり、よく、わからないです」

むしろ引きあげられたのは私のほうなんじゃないのか。自分の務めを私に思い出させてくれたのは三成様だった。彼が暗くて深い水底から私を救ってくれたのだ。

「わからない、けど多分私はきっと三成様に生きてほしいんだと思うんです。これからも、ずっと。これが私の答えなんじゃないでしょうか」

――私がここに来た理由。来なければならなかった理由。私の使命は三成様が生きるための別の道を提示することなんじゃないのか。憎しみではない、もっと違う方法で。私にしかできないやり方で。
しかしそれには問題がある。とても大きな問題だ。
このままでは確実に関ヶ原の戦いが起こる。そしていくらこの世界の歴史が私の知っている史実とは異なっていたとしても、おそらく三成様が死ぬ、そんな予感がしていたからだった。
けれど私は知ってしまった。そもそもこの戦が起こる原因となった出来事がすべて徳川家康のついた嘘によって始まったことを。
言ってしまおうか、という甘い誘惑が再び私に襲いかかってきた。そして言ったところでどうなるのかという疑念もまた頭をもたげてくるのだ。
延々とそうして私の脳内では二つの論争が続いているなか、ふいに大谷様の口が開いた。

「主がそう言うのであれば、一つだけだが道はある」

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