アネモネ | ナノ
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私は自分の耳を疑った。 秀吉を殺したのは自分じゃない? いったいどういうことだ。
けれど徳川様の表情はとても冗談を言っているようには思えなかった。真剣そのものである。

「だって、そんな、豊臣秀吉を殺したのは徳川様だって。石田様だってそう言ってて……」
「そのときお前は三成からどう聞かされたんだ?」
「どうって、そんなのそのままですよ。ただ、家康が秀吉様を殺したのだと。私が聞いたのはそれだけです」

私が三成様に教えてもらったのは本当にそれだけだった。それどころか今になって、どのように徳川様が豊臣秀吉を殺したのかを知らなかったことに私は気づいた。この件に関して私はまったくの無知だった。
徳川様は、そうだ、そうだよなと、まるで独り言のように言ってから納得した顔をさせてみせた。しかしそれもほんの一瞬のことで、再びまじめな表情へと戻る。

「巫殿が狼狽するのも無理はない。なにせ三成は――いや、三成だけではあるまい。おそらく日ノ本のみなが秀吉殿を討ったのはワシだと考えている。そしてそれがまことの事実なのだと」
「……どういう意味、ですか」
「秀吉殿を殺した人間が他にいる、ということだ。そしてワシはその人物を知っている」

まるでわけがわからない。とうとうと話す徳川様にまるで頭がついていかなかった。
私は一度自分の中で整理をしようと思い、今まで知っていた知識と、今初めて知った知識とを脳内で並べだした。
まず、私はずっと三成様の言葉どおり豊臣秀吉を殺したのは徳川家康だと思っていた。そしてそれは私だけではなく、日本の誰もが信じて疑わない事実のはずだった。たった今、この瞬間までは。
徳川様は言ったのだ。犯人は自分ではない、他にいる、と。

「じゃあ」

自然と声が震えるのがわかる。
なんとなく聞きたくない、という感情が私の中にあった。聞いてはいけない気がした。それでも止められはしない。

「誰なんですか。それは」

私がそう質問をすると、彼はやはり来たかという表情をした。それは私がこのことを尋ねるということを、彼が前もって予期していたかのようだった。
彼はゆっくりと慎重にその名を口にした。

「松永久秀という男だ」
「松永、久秀……」

私にはその名前には聞き覚えがあった。社会の授業の合間に、松永久秀という人物について先生が教えてくれたのだ。
この老人は常人には出来ぬ天下の大罪を三つも犯したと。主君を殺し、将軍までをも殺し、奈良は東大寺の大仏を焼き討ちしたと。なんでも織田信長が徳川家康に彼を紹介する際、こう評価したらしい。
徳川様は私の顔色がさっと変わったのをめざとく感じとったのか

「知っているのか、彼を」
「……とても恐ろしい男だと聞いています。それなのに、なぜ、あなたは彼をかばうような嘘をついているんですか。それも三成様や大谷様だけではなく、日本じゅうを巻きこんでまで」
「かばっているわけではないよ」
「ならどうして――」
「三成を、生かせたかった」
「生かせたかった?」

はたしてそれはどのような意味なのだろう。ますます私の不信は募っていく。
徳川様は続ける。

「三成にワシを憎ませることによって、それを三成の生きる原動力にさせようと思ったんだ。松永久秀はもうこの世にはいない。ワシが戦場に行ったときには、すでに彼は秀吉公と相打ちとなって地面に倒れ伏していた。だからワシは考えた。このことをもし三成が知ったとしたら、仇を討つ相手がこの世にいない今、きっと三成は秀吉公のあとを追って自ら命をたつだろう。けれどそんなことはさせない。
ワシはそうやって、三成にワシへの憎悪でもって生きてもらうために嘘をついた。そして今もそれは続いている。三成とワシはかつては友だった。ワシは、ワシがどんな手を使ってでも三成に生きてもらいたかったのかもしれない」

なんだそれは。私は珍しく自分の頭に血がのぼるのを感じた。
生きてもらいたかった? どんな方法であれ? それが三成様にとって幸せなことだったとでもいうの?
そんなの絶対におかしいじゃないか。

「なんですか、それ。変ですよ。おかしいですよ。徳川様が三成様を友と呼ぶなら、私は昔お二人の間にあったことはなにも知りません。だけどそんな方法が間違ってるのだけはわかります。私だって三成様に生きてほしい。でもそんなふうに生きてほしいんじゃない。そんなふうに生きながらえた命なんて悲しいだけだ。それはあなたが一番よくわかってるんじゃないんですか」

絶対に彼から目をそらしてはいけないと思った。凍りついたように微動だにせず、ただ彼の瞳を見つめ続けた。
そのときである。襖の外から突然声が飛びこんできた。

「家康様!」
「ああ、どうした?」
「門前にて怪しい男を引っ捕らえました。まだ年若い、青年のような男です。なんでもしきりに巫女様を返せと言っているようですが……」

左近様だ。私はほぼ直感的にそう思った。敵の本拠地だというのに、私のためにここまで迎えにきてくれたのか。また危険な目にあわせてしまった。

「どうやら迎えが来たらしいな。おそらく左近だろう」

ふわり、と急に徳川様の表情がゆるむ。その表情は、徳川家康という江戸幕府の創設者であり天下人というよりも、私にはただの一人の男のように見えた。

「長いことつきあわせてしまって悪かったな。帰るといい。お前の場所へ」
「私の場所へ、帰る……」

そうだ。今の私に帰る場所はあの佐和山の城しかない。あそこが私の唯一の居場所なんだ。だから、私は帰らなくちゃいけない。
私が生きる場所へ。

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