アネモネ | ナノ
22


朝がやってきた。
あたり一面朝靄に包まれていた景色が、太陽が昇るにつれて鮮明なものへと変わっていく。外界の空気が温まり始めたころになると、次第に陣の内も外もガヤガヤと騒がしくなってきた。
いよいよ戦が始まるのだ。

「よおーっし、気合い入れて働きますかね! なんてったって三成様直々のご命令だもんな!」

太陽のある方角に向かって島様が思い切り体をくんっと伸ばす。その声は、これから戦場に向かう人間だとは想像できないくらい爽やかでさっぱりとしたものだった。

「巫女様はここにいて。だけど危ないと思ったらすぐに逃げること。巫女様の身にもしなにかあったら俺が三成様と刑部さんに殺されちゃうからね」
「……島様はどうなさるんですか。そんなこと言って大丈夫なんですか」
「俺は平気だよ。それに俺が任されたんだから負けるなんてことぜってーねえよ。こいつも一緒だしな」

どこから取り出したのか島様がサイコロを空に向けて軽くひと投げする。やがて重力に従って落ちてきたそれらが再び島様の手の中に帰ってきた瞬間、遠くから派手な一発の銃声が聞こえた。するとそれにつられるようにして次々と発砲音の合唱が始まりだす。
音は、柴田勝家と今私たちが陣を張っているそのちょうど中間地点あたりから聞こえた気がした。一時間ほど前に先発隊が出発したので、もしかしたらそこで柴田勝家の軍との戦闘が始まったのかもしれない。
急に不安になって島様を見上げる。彼は「来たか」と小さく呟いていた。その飴色の瞳は興奮しているのかギラギラと輝いていて、ともすれば噛みつかれはしないかと私は一瞬震えた。さながら狂犬のようだ。

「島様、あの――」
「……そんな悲しそうな顔しないで。俺は大丈夫だから。それに、むしろ俺は今楽しみでたまんねえの。ずっとあいつと戦いたかったんだ、俺は。それがやっと叶う」

それから島様は陣幕を上げると一度私に軽く手を振ってから、脱兎のごとく外へ駆け出していった。先走るは悪手ぞと、それを見ていた兵士さんの一人が島様の背中に向けて注意するのが聞こえる。
気づけば私はしわくちゃになってしまいそうなほどに強くスカートを握っていた。
*
時間がたてばたつほど、私の中の不安はよりいっそうむくむくと膨らんでいった。私はひどく無力だ。そんな当たり前のことをいまさらながらに思いしらされて恥ずかしくなる。

「何者だ貴様!」

突然聞こえてきた声に私ははっとしてうつむいていた顔を上げた。それは陣幕の外から流れてくる。
一つは先ほど左近様を諫めた人の声のようだったが、もう一つは聞き覚えのないものだった。彼らは、ここは通さんぞとか、乱暴を働く気はねえよなどどしばらくは言いあっていたものの、やがて片方が焦れたらしく無理やり陣幕の中に押しいってきた。
目が、あう。

「あなたが、柴田勝家様ですか……?」

ほとんど無意識に私はそう口にしていた。語尾が疑問系になったのは私がまったく柴田勝家の容姿を知らなかったことと、今目の前に立っている人物とでは聞いていた雰囲気が異なっていたからだった。
兜には三日月の形をした前立物がついている。右目を眼帯で覆っているものの、それでも端正なつくりをしているとわかるほどに彼の顔は整っていた。
しかし私が驚いたのは、彼の着ている青色を基調とした戦装束の腰には刀が六本もささっていたことだった。二刀流というのは聞いたことがあるが、六刀流なんてものは聞いたことがない。そもそも一気に全部扱うことなどできるのか。だとしたらどうやって。
まじまじと六本の刀を見つめる私にむかって彼は隻眼を不敵に歪めながら

「オレは勝家じゃねえ。伊達政宗だ。You,see?」

伊達政宗。その名前なら私でも知っている。今城跡には彼の騎馬像があるはずだ。
ところでどうして彼は英語を話しているのか。刀のことといい、史実の噂どおり型破りな人物であるらしいことは間違いない。いや、それ以上か。

「なんの用だ、伊達政宗」

じり、と陣幕の中に残っていた兵士さんたちが私と伊達政宗の間に割って入ってくる。その一人が放った声はひどく氷のように冷たかった。

「あの石田が側に置いてるっつう巫女がここにいるって聞いたんでね。勝家に会いがてら見にきたってわけだ」
「詩織様には指一本とて触れさせてなるものか!」

わああっと猛々しい声があたりに響きわたる。見ると刀を振り上げて伊達政宗に切りかかろうとする一つの人影があった。
しかし伊達政宗はそれをいとも簡単にかわすと、腰から刀を一本抜いて腹部に当てた。ほんの一瞬の出来事だった。兵士さんの体がぐらりと傾いて地面に倒れる。
ひい、と口から情けない声が飛び出てきた。思わず震える瞳で伊達政宗の目を覗きこんでしまった。

「安心しな、峰打ちだ」

彼はそう言うとさっと刀を戻してから、こちらにむかってゆっくりと近づいてきた。戦意の削がれた兵士さんたちは動くことができない。

「いったいどんな勇ましい女かと思ってたんだが。わりと普通――いや、そんなこともねえか」

髪の毛を一房ふわりとすくいあげられる。
今なにがおきていて、これからなにがおきるのかまったく見当のつかない私は身動きがとれず、ただ黙ってじっと伊達政宗の瞳を見つめ返すだけだ。
彼の口が静かにゆっくりと告げる。まるで耳元でささやくように。You're so cute、と。
私が唖然とするのと、陣幕の中に新たな人物が飛びこんでくるのは同時だった。伊達氏! と呼ぶ声につられて視線をそちらへ移す。
雨に濡れた美人な野良猫を想像させるような、憂いをたたえた美しさを持つ人だと思った。
全身を玉虫色の具足で固めている。三成様より白皙ではないものの、それでもやはり戦国武将にしては色が白い。きっちりと切りそろえられている漆黒色の髪の毛が、風でゆらゆらと揺れていた。
多分、彼が柴田勝家だ。私がそう考えていたとき

「待てって勝家!」

意気揚々と飛び出していったはずの島様が戻ってきた。見たところケガなどはないようだ。はあはあと肩で息をしている。
彼は膝に手を当てて呼吸を整えながらぐるりと陣幕の中を見まわして、ふと首の動きを止めた。ひどく困惑した表情を浮かべる。その視線の先には伊達政宗がいた。

「な、なにこれ。どうして竜の兄さんまでここにいるわけ?」
「俺は勝家の顔を見に来たついでに、噂の石田の巫女ってやつを一度拝んでおこうと思ってな。そしたらまあこれが予想以上だったわけだ。それにしてもお前ら、そろいもそろって血相変えた顔していったいどうしたってんだ」

すっかり会話に入っていけず、そのなりゆきをただ見守るしかない。それは兵士さんたちも同じようでじっと黙って彼らの次の言葉を待っている。

「そうだ、そうなんだって! 大変なんだって!!」
「Ah……? だからなにが大変なんだよ」
「なにってそりゃ――」
「もういい、左近。お前では話にならない。私が言う。
徳川が、こちらにむかって進軍してきている」
「家康が……?」

一度誰かがもたらした動揺は、水の波紋が広がっていくようにして次第に周囲へと伝播する。
その名前を、日本人ならば知らない人などいるはずがない。江戸幕府初代将軍にして、徳川家繁栄の礎を築いた張本人だ。
いつかこんな日が来るだろうとぼんやり思っていた。徳川家康をこの目で見る日が来るのだろうと。

「どういうことだ。俺はなにも聞いてねえぞ。家康がここへ出てくる、なんて」
「いや、語弊を生じる言い方をしてしまった。そうではないのだ、伊達氏。来るのは本多忠勝一人だ。彼一人がこちらへむかっているらしい」
「Throw in the towel.アイツの考えることはときどきわからねえ。それで、どうするつもりなんだ。俺と勝家はともかくとして、島左近、アンタにとっちゃ徳川は憎い敵だ。そうだろ?」
「……ああ、そうだ。漁夫の利を狙ってんのかは知らねえが、いきなり乱入してくるなんざとんでもねえイカサマ野郎だよ」

ギリ、と島様が唇を噛んだ。瞳がギラギラと輝いている。狂犬だ。
しかし彼が一度深呼吸をすると、潮が引くようにしてその熱のようなものはすっと消えていった。それから、言った。

「だけど俺は本田忠勝に一人で挑むなんて今そんな無謀なことしはない。今は陣を捨ててみんなをまとめて佐和山へ帰るんだ」

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