アネモネ | ナノ
18


「巫女様。ただいま鯉城に船が到着いたしましたので、案内させていただきます。さあ、こちらへ」

あれからおそらく三時間ほど経ったころ、襖が開いて一人の兵士さんが現れた。
私はずっと考えていた。今のところ毛利様には私を殺す意思はない。まだ、というだけだが。
おそらくそれは彼の言っていた「働く」という言葉に関係しているのかもしれない。だとしたら私は私が働くべきこととはいったいなんなのか。
兵士さんのあとについて外に出る。背後を振り返って自分の乗っていた船を見た私は思わず感嘆の息をもらした。ため息が出るほど巨大な御座船だった。装飾も豪華絢爛を誇っている。
正面に向き直ると今度は城の天守が目に飛びこんできた。黒い天守は地面を見くだすようにしてそびえ立っている。

「ここでしばらくお待ちください」

お城に入ってから長い通路をくねくねと曲がって通された部屋はこじんまりとした謁見室のような場所であった。
言われた通りにしてしばらく待っていると、やがて部屋の襖が静かに開かれた。毛利様だった。
彼はしなやかな動きでこちらに歩いてきてから一段高くなっている畳の上に腰をおろした。その無駄のない動きは、私に美人の猫を想像させる。

「り、立派なお城ですね」
「貴様にはやってもらわねばならぬことがある」

会話がいまいち噛みあっていない。
しかし、おそらく今から彼は私の知りたかったことを話してくれるつもりでいるようだ。私ははあと曖昧な相槌を打って続きを待った。

「すでにわかっていると思うが、貴様は人質だ」
「ひ、人質、ですか」
「貴様をかどわかしたのは、石田との同盟を我が方の有利に進めるためだ。噂の巫が我の手にあるうちは手も出せまい。貴様にはせいぜい人質として働いてもらう。
それにしても、石田が少ない手勢で貴様を伴う機会のあったことは幸いだった」

人質とは、交渉を有利にするために人の身柄を拘束すること、また拘束された人をさす言葉である。つまり私はその定義どおり、同盟の交渉で優位に立ちたいと画策した毛利元就によって拘束されてしまったのだ。

「……働くって、じゃあ私はいったいなにをすればいいのでしょう」
「なにもせずともよい」
「え?」
「じきに石田が来る。貴様はそのときに己の命が無事であることだけを示せ」

彼は自分の手の内をすべて明かしたとでも言いたげに、その声は自信に満ちていた。だが私にはそれが納得いかない。

「……どうしてそんなことが言えるんですか」
「なんだと……?」
「だって必ずしも石田様が来てくれるなんて限らない。私のような小娘のために時間と兵を割いてまで。それなのにどうしてあなたはそんなことが言えるんですか」
「貴様は巫女なのだろう。未来までもを己の意思のままに操れるという。そのような人材をそうやすやすと手放せるはずがない」
「……私は、ただの、普通の人間ですよ。あなたが思っているような力なんて、きっとない」

言いながら、私はふとあのときのことを思い出していた。それは、石田様の暗殺未遂事件があったときのことだ。
頭の中に突然映像が流れこんできたのだと告白した私に向かって彼は

「貴様は今なにを考えている」
「……どういう意味ですか」
「予言だの、未来を変えられるだの、そんなくだらないことを考えているのではないだろうな」

図星だった。
はたしてこんなことが偶然という言葉で片づけられるのだろうか。片づけられていいのだろうか。
けれど私は普通の女子高生でありたかった。認めたくなかった。往生際が悪いとか、諦めが悪いとか言われようとも。私は私が信じられなかった。

「だから石田様はきっと来ない」

自分で思っていたよりもしっかりとした声が出た。
そうだ。石田様は来てくれない。大谷様がなにか言おうとも、すべての決定権は石田様にある。
そんな私の発言が気に入らなかったのか、毛利様は突然立ち上がると大きな声でどなった。部屋中に響き渡るような大声だった。

「貴様、我の謀略に異を唱えると言うのか! おのれ小娘が!!」
「ひっ!?」

そのまま近づいてきた彼は、その見た目から得る華奢な印象とは裏腹に、私の胸ぐらをものすごい力で締め上げた。完全に無防備だった私に抵抗する余裕などない。

「もはや貴様などどうでもよいわ!」

殺される、と思った。
顔が近い。彼の綺麗なそれは、怒りですっかり歪んでしまっていた。
酸素が肺の中にうまく入ってきてくれなくてとにかく苦しかった。思考が次第に霞ががっていく。

「毛利様! 大変です! 」

しかしドタドタと慌ただしく廊下を走る足に続き、部屋の襖が開かれたことで私は毛利様の拘束から逃れることができた。
急に大量に入りこんできた酸素にむせながら見ると、ここまで案内してくれた兵士さんが立っていた。ただ、どこか様子が変だと思った。血色のよかったはずの顔は青白く、それに先ほどまで静かだった廊下からは人々の慌てふためくような声も漏れ聞こえてくる。

「何事ぞ」
「それが、豊臣の左腕が……凶王が単騎で城に……! とにかくここは危のうございます! 今すぐお逃げ――あっ」

鮮血が、飛んだ。兵士さんの口から。
私はなにが起こったのかわからなかった。しかし、部屋の畳へ倒れこんだ兵士さんの背中に生々しい傷があったのと、そのすぐ後ろに血がべっとりとついた刀を持っている人影が立っていたことですべてを悟った。それは私が来るはずもないと思っていた石田様だった。

「毛利……元就」
「フン、思っていたよりも早かったな。それにしても我が城で随分と手荒な真似をしてくれたようだ」
「……貴様の目的はわかっている」

石田様の鋭い眼光が、まだ畳に手をついて呼吸を整えていた私に向けられる。

「大谷か。それも見越した上での計画ではあったがな。しかしそれももうどうでもよくなった」
「なんだと……?」
「貴様が一秒でも遅れていたら小娘の命はなかったということだ」
「っ!」

それは一瞬のできごとだった。三成様の刀の切っ先が、丸腰の毛利様の喉元すれすれに向けられる。
だが毛利様の表情に恐怖や焦りのようなものはなかった。むしろどこか楽しそうな様子でもあった。

「殺すか、我を」
「……殺しは、しない。それが刑部の判断だ。だが諦めろ。すでに勝負はついている。中国の覇権だけは貴様に譲ってやろう」
「それは我にとってなによりの報せよ。
さあ、去るがよい。凶王と小娘よ」

石田様はすっと刀身を下ろし血を振り落とすと、刀を鞘の中に収めた。
そしてそのまま

「なにをしている。帰るぞ」

そう言いながらやや乱暴に私の手を取って体ごと引っ張り上げた。
あとのことはあまり覚えていない。ようやく状況が掴めるようになってきたのが、石田様の操る馬に乗って走り出してから30分ほどたったころであった。
きっと来てくれないと思っていた、そう思っていた。けれど彼はこうして私を助け出してくれた。しかも敵陣にもかかわらず、単騎で乗りこんできてくれたのだ。
そうして目の前の広い背中を見ていると、次第に気持ちが緩んできて、胸の中がじんわりと暖かくなる。それなのに、ドキドキと心臓の高鳴る音がしていた。
だが私は彼に謝らなければならない。
自分を省みたとき、私は申し訳なさで押しつぶされそうになった。私はなんてやつだ。最低だ。
きっと私が本当に信じていなかったのは石田様の方だった。

「……すみませんでした」
「なにを謝っている」
「か、勝手に捕まったりして、迷惑かけて……それから、来てくれないって思ってました。だからごめんなさい」

ポロリ、とごく自然に目から涙がこぼれおちた。頬に跡をつけては首筋を流れていく。
それは多分、安堵とか申し訳なさとか、とにかく色々な感情がごちゃまぜになって出てきた涙だったと思う。けれど本当のところは私にもよくわからなかった。

「泣いているのか」
「あ、いや、えっと……」
「……貴様が危なかっしいのは承知の上だ。それと貴様がどう思っていようとも、私は私のしたいようにしたまでだ。だから早く泣きやめ。私は泣いている女の扱いがわからん」

いつもと同じぶっきらぼうな言い方と声だった。けれど私はこの瞬間に、自分の中のなにかが変わったように感じた。
しかし私がそれに気がつくのはもう少しあとの話である。

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