アネモネ | ナノ
13


翌朝は誰かの叫ぶ声で目が覚めた。なにを言っているのかまではよく聞きとれなかったけれど、部屋の外からしていることだけはわかったので肌寒さを覚える体をさすりながら布団から出ると障子を開けた。
雪で覆われていた庭園に、ふと昨夜は見かけなかったものがあるのに気づく。ちょうど縁側が折れ曲がっている目の前に大きな雪の塊ができていた。雪が屋根から落ちたものだろうか。
また叫び声が聞こえた。こころなしか、私はその声が雪の塊の中からしている気がしてまさかと思った。雪の下に埋まっている人がいるというのか。
雪に触れてみると昨日とは違い、ふわっという感触よりも硬くなっている印象が強かった。手で雪をかきわけていく。やがて頭頂部のようなものが見えてきて私はやっぱりだと確信を得た。

「だ、大丈夫ですか!? 今助けます!」
*
「いやあ、助かった! 急に上から雪が降ってきてな。一瞬死ぬのも覚悟したぞ」

目の前に畳にどかりとあぐらをかいて朗らかに笑っている彼の名前は黒田官兵衛様というらしい。申しわけないが私はその名前を知らなかった。
両腕にはがっしりと筋肉がついていて、その腕に見合うほど体格も立派だ。顔は長い前髪に覆われていてよく見えなかったけれど言葉の端々に滲んでいる豪快さが、きっといい人なんだろうなと思わせてくれた。
ところで

「その手首についている手枷のような物はいったい……」

とても頑丈そうな手枷から伸びている鎖の一番先に大きな鉄球が繋がれている。ふと運動部がやっていたタイヤ引きの映像が頭の中に浮かんだ。
黒田様は忌々しそうに両腕を軽く持ち上げながら

「これか? これは三成と刑部にやられたのさ」
「三成様と大谷様に、ですか?」
「小生が秀吉の下につきながら天下を奪い取ると思ったらしい。まあ、事実だがな。おかげで今は九州での穴倉暮らしさ」

はあ、と相槌を打つ。
黒田様はどうやら豊臣の関係者であったようだ。

「そういえばお前さん見たことのない顔だな。不思議な着物を着ているが、女中の新入りか? だがこの部屋はある程度の身分がなければ入れないはずだろう」
「えっと、それは……」

はたして話していいものだろうか。私が巫女として祭り上げられているということを、この人に。
黒田様の言葉を思い出す。計画は失敗に終わったとはいえ、豊臣の天下を狙うという大きな野望を抱いていた人間なのだ。
私がそうして言葉に詰まっていると

「まさか三成の室じゃあないだろうな」
「シツ?」
「奥方だよ、奥方」
「ち、違います! そんなんじゃありません! 私はちょっとわけありでここ置いてもらっているだけで……!! だから奥方とかそんなのじゃ全然……」

どうして私はこんなにも動揺しているんだろうと思いながらも、うわずった声を抑えることができない。

「なんだ、違うのか? まあ、あいつの関心は豊臣と徳川にしかないからな」

黒田様が半分馬鹿にしたような口調で言う。
石田様は徳川家康と豊臣秀吉以外に対してはおそろしく執着のない人だった。
彼は人間としての欲求が欠如していた。睡眠も満足にとっていないと聞くし、彼が食べ物を口に運んでいるところなどここに来てから一度たりとも見たことがない。
そんなことを思い出しながら黒田様の言葉に頷いていると、なんの前触れもなしに突然障子が開いたので死ぬほどびっくりした。

「官兵衛……誰の許可を得てこの城にいる! 今すぐ去ね!!」
「お前さんは本当に相変わらずだなあ。別に小生だって来たくて来てるわけないじゃないか。話が済んだらこんなところ進んで出て行ってやるさ」

石田様がものすごい剣幕で部屋の前に立っていた。左手に持っている刀を抜いて黒田様に突きつけるのではないかとハラハラしてしまう。頼むから新しく死亡フラグを立てないでほしい。

「話、だと? 貴様の話など聞くにあたいするものか。目障りだ、さっさと出ていけ。秀吉様から賜った城が穢れる。それから」

石田様の視線が黒田様から私へと移される。まるで獣が小動物を狙っているかのような鋭い眼光に私は晒された。

「官兵衛を部屋に入れたのは貴様か」
「は、はい」
「勝手な真似をするな。コイツは恐れ多くも秀吉様から天下を簒奪しようとした裏切り者だ」
「……申し訳ありませんでした。以後、気をつけます」

すっかり恐縮して深々と頭を垂れていると、フンと小さく石田様が鼻を鳴らす音が聞こえてきた。そしてそのまま縁側を歩いてどこかへと行ってしまう。

「おっかないねえ。女にも態度一つ変えやしない。事情は知らんが、お前さんよくこんなところで生活できるな」
「他にいく場所もないので……それに石田様と顔を合わせることもそんなにありませんし。ところでお話ってなんだったんでしょう」

聞くと、急に彼はそわそわした態度になって辺りを見回した。そして私に向かって手招きをする。首を傾げながら近づいた私の耳元に唇を寄せて黒田様は、言った。

「三成暗殺の噂がある」

反射的に顔が上がった。遅れたようにして自分の髪の毛がふわりと宙に浮いたのが横目で見えた。
じっ、と黒田様の顔を見つめる。やはり前髪のせいでどんな容姿をしているのかわからない。

「暗殺って、本当ですか」

暗殺。政治上の立場や思想の相違などから、密かに要人を狙って殺すこと。
その言葉を実際に出してみて重さと同時に、どれだけ私が今まで平和に溺れていたのかをまじまじと知らされた。一瞬だけ、怖い、と強く思った。私は意図せず戦国時代へとやってきてしまったその事実を、今になってやっと痛いほど噛みしめた。

「だから噂だよ。まあ、おそらく小生からこんなことを聞かされたところで奴は相手にしてくれないだろうけどな」
「でも、そんな大切なことをどうして私に……」

彼は私がここに身を置いている理由を知らない。石田様とのやりとりを見ていても、ただ私たちの上下の関係を表しているだけにしか見えなかっただろう。
もしかしたら私がその刺客なのかもしれないのだ。彼はその可能性を考えなかったのだろうか。

「小生は女には弱いもんでね。特にお前さんような可憐なお嬢さんにはな」
「か、可憐なお嬢さん……」
「さてと、長居するとまた三成がうるさいからそろそろ帰るかね。助けてくれて本当に感謝している。またどこかで会えると嬉しいよ、詩織」

巨大な鉄球を床にずるずると引きずって黒田様は再び雪景色の中へと消えていった。
暗殺、という言葉が再び私の心に深い影を落とし始めていた。

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