アネモネ | ナノ
08


「伊予へ行く」
「はあ、行ってらっしゃいませ」
「なにを言っている。貴様も来るんだ」

ある日の朝のことだった。石田様が突然部屋にやってきてそう告げたのだ。
そのときの私はまだ起きたばかりであったが、石田様はかっちりと鎧に身を包んでいた。

「刹那だけ待ってやる。早々に支度をしろ。馬屋に来い」
「は、はいっ」

石田様にじろりと睨まれる。まさに蛇と蛙だ、と思った。
石田様のことは相変わらず怖い。島様との遠乗りでプラスの印象を得たものの、それだってほんのわずかでしかない。私はやっぱり石田様のことをよく知らないのだ。
石田様が出ていくと、私は急いで着替え始めた。
*
言われたとおり馬屋に向かった。
戦に行くような格好を石田様がしていたので、すっかり大所帯とばかり思っていたのだが、私を待っていたのは馬に乗った石田様と数人の兵士の人たちだけだった。

「遠征なのでは?」
「私が戦場に女を連れていくとでも思っているのか」

それもそうか。私だって戦場になんか連れていかれても、どうしていいかわからない。きっと足手まといだ。
石田様はそれ以上はなにも言わず、黙って後方に視線をやった。後ろに乗れ、ということらしい。
危なっかしく馬に貼りつくようにして体を引き上げていると、小さな舌打ちのあとにふわっと体が軽くなった。ストンと馬の背に乗せられる。三成様が私を引っ張ってくれたようだった。
島様が勢いのある運転なら、石田様は頭で考えるような運転の仕方をする人だと思う。スピードはたしかにあるのに、静かな湖面を想像させる。

「今からどこへ向かうのですか」
「伊予だと言っただろう」
「イヨとは地名のことですか」
「先の世から来たと言ったのにそんなことも知らないのか」
「……す、すみません」

思えば私は、石田様に謝ってばかりな気がする。
石田様は小さく、けれどもしっかりとした響きを持って瀬戸内に向かうと言った。瀬戸内、ということは四国の方に行くのだろうか。
そういえば今さら遅すぎるかもしれないが、石田様の居城のあるこの地は平成の時代ではどの場所にあたるのだろう。教科書の日本史しか知らない私にとって、石田三成が自分の城を持っていたことさえ初めて得る事実だったのだ。
島様に城下町を見せてもらったとき「近江佐和山城」と彼は教えてくれた。私はそのオウミという単語に不思議と聞き覚えがあるような気がする。遠い昔どこかで聞いた気がする。どこだったけ。
考えていると急に左右に生えていた木々の群れが途切れて、代わりに真っ青な景色が現れた。

「わあ……」

思わず感嘆の息が漏れた。
一面の青は、視界のずっと先まで続いていて終わりが見えない。太陽の光を反射して水の表面がキラキラと輝いていた。

「海、ですか」
「この地は海に面していない。あれは湖だ」
「湖……」

湖にしては大きすぎはしなかろうか。本当に海と勘違いしてしまいそうな広さなのだ。
そのとき私はふと思い出した。どこでオウミという言葉を聞いたのかを。
それは、日本の県について調べてみようという中学の地理の時間のことだった。
黒板に大きな日本地図を貼りつけて授業をしていた。先生はある県を指しながら

「ここは滋賀県。この水色の部分は全部湖なんだ。一度くらいは名前を聞いたことがある人がいるかもしれないな。琵琶湖というんだ。海と間違えるくらいとても大きい湖で、古い文献には淡海とも書かれている。それが由来となって、昔はこのあたりの地名を近江と呼んでいたんだよ」

この記憶が正しいのなら、私は現在でいう滋賀県にいるということになるのか。そしておそらく、今目の前に見えているのが琵琶湖なのだろう。生で見るのは初めてだ。
改めて随分と遠くまで来てしまったと思う。距離も、時間も。

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