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柔肌の熱き血潮に触れもみで


「忘れてた」
今は昼休み。教室ではご飯を食べたり机に突っ伏して昼寝をしていたりと、生徒みなが銘々自由に過ごしている。
私も例に漏れず昼食をとっていたのだが、しまったと思った瞬間に箸を動かす手が止まった。真正面の友人がパックのイチゴ牛乳を啜りながら

「どうしたの詩織。この世の終わりみたいな顔して」
「生物の補習課題まだ出してなかった」
「それはこの世の終わりだわ」
「ちょっと笑い事じゃないんだからね」

上手いことを言ったと、一人でニヤニヤする友人を無視して腕時計を見る。昼休みが終わるまであと五分もなかった。

「やばい。行ってくる」
「はいはい、行ってらっしゃい。頑張って」
*
なんで忘れていたのだろうと廊下を小走りに駆けながら不思議に思った。
石田三成先生。生物補習を担当している教師の名前をそう言った。
石田先生は、生徒たちの間で格段に評判が悪かった。厳しいのである。それも、とても。
しかし石田先生は類まれなるルックスの持ち主でもあったので、先生への不満は今のところ水面下で渦巻くだけに留まっている。
そんな石田先生であるので、課題を出し忘れるだの遅れるだの許されるはずがない。どんなに怒られるか、考えただけでも膝が震える。
石田先生はいつも生物準備室にいるのだった。四階までダッシュするのはなかなか辛い。
扉の前まで来ると、もう一度腕時計を確認した。残り三分。ギリギリだ。

「三年二組の野田詩織です。生物の補習課題を提出しに来ました」

二回ノックをしてから声をかける。しばらくすると扉の向こうから、静かに「入れ」と聞こえた。

「失礼します」

石田先生はシワ一つない白衣を着て、分厚い書類と向き合っていた。
実は私は、石田先生に憧れを抱いている。石田先生はたしかに容赦のない性格の人ではあったが、やるべきことをきちんとやっていれば怒ったりはしない。
先生が無言で手を差し出したので、私はそこに課題を置いた。

「それでは失礼します」
「待て」

踵を返そうとしていた足が止まる。俯いて課題に目を通していた先生の視線がふっと持ち上がり、私を捉えていた。
やはり出すのが遅すぎたか。それとも課題になにか不備でもあったのだろうか。叱られるのではないかという恐怖で、私は自分の拳を力強く握った。

「なんで、しょう」
「この間の中間試験だが」
「試験?」
「頑張ったな」

私は今この瞬間から、すべてのなにもかもが信じられないような気持になった。私があの石田先生に褒められている。私をあの石田先生が褒めている。

「野田はよくやっていると思う。その調子で励め」

先生はさらに私を混乱させるようなことを言ってから、ふいに右腕を上げると私に近づけてきた。
頭を撫でられる。先生の骨ばった長い指が、私の頭を数回弧を描いて撫でまわしていた。
私は思わず石田先生の顔を凝視した。しかしそこにはいつもと変わらぬ、常に不機嫌そうな表情があったのだった。綺麗な顔をしているからか余計に冷たく見える。まるで鋭利なナイフのようだと思った。
先生は私の頭を数秒間撫で続けていたが、やがて何事もなかったように

「もうじき鐘が鳴る。帰れ」

と言って手を離した。
私はその実に先生らしい言い方にやっと我に返ることができた。そして上手く動かない口で退出の言葉を告げると、慌てて準備室を飛び出した。
*
「なんだったんだ、あれ……」
部屋から出た瞬間一気に体の力が抜けて、私は扉の前でしゃがみこんでしまった。
私は密かに彼に好意を寄せていた。
心臓がドキドキしている。全速力で走ったあとみたいに。
嬉しいとか、恥ずかしいとか、やっぱり信じられないとか、とにかく色々な感情が湧いてきて脳内がごちゃごちゃになる。
顔が熱くて、先生に触れられた場所にはまだ指の感触が残っている。ぎこちなくて少し乱暴だったけれど、先生の実直さが伝わってくるような触れ方だった。

「先生は卑怯だ……」

遠くでチャイムの鳴る音が聞こえた気がした。



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