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サイネリアの夜


毎年この季節になると、クリスマス当日に大きな旅行バッグと食材がたっぷり詰まったスーパーの袋を持って彼の家を訪れる。
初めの頃こそ彼は露骨に嫌な顔をしていたけれど、私の頑固さを諦めたかのように今では「今年も来たか」というような様子で家の中に入れてくれるようになった。
朝から彼の家のキッチンを借りて、クリスマスのための料理を仕込む。それは普通に多くのカップルや家族の間で行われている行為だ。しかし、私たちの場合はそのあとが違っていた。
次の日から三日三晩を費やして三成くんの家の大掃除をする。本来はクリスマスパーティーの延長線上にあったはずの行事が、今ではそちらの方がメインになりつつあった。
三成くんは名前を聞けば誰でも「あの有名な」と口を開く大学の医学部に籍を置いている。いわゆる医大生というやつだった。
医大生の毎日は忙しい、らしい。朝から晩まで授業と実習と研究のオンパレードで、それは大学生におけるモラトリアム期を存分に堪能している私にとっては考えられない生活だった。
だから、彼が自分の家にいる時間は少なくなる。そうなると自宅に手を入れる時間も自然と減っていくというわけだ。
三成くんの私物がいくら必要最低限の物しかなかったとしても、ほぼ丸一年掃除されていない部屋を片づけることになるのでそれはとても大変な作業だった。まずはキッチンやらトイレやらお風呂場といった手間のかかる所から攻めていく。
そもそもどうして偏差値のとりたてて高い学校に通っているのでもない私が、将来を嘱望されている優秀な学生である三成くんと知りあうことができたのか。それは合コン、であった。
大学一年生の六月末のことだ。私は合コンなどに興味はなかったが、タダ飯が食べられるという即物的な理由に釣られて行くことにした。タダ飯ほどおいしいものはない。会場であるレストランの外では雨が降っていて、雨粒が窓に打ちつける音が延々と続いていた。

「石田三成だ」
「野田詩織です。本日はよろしくお願いします」

私の目の前の席に座っていたのが三成くんだった。彼の第一印象はとても綺麗な顔をしているが、その整った外見が逆に冷たい雰囲気を漂わせているとも思った。
案の定彼は自分の名前を言ってから一言も喋ろうとしなかった。私もあまり自分から話す方ではないので沈黙が流れる。そもそも医学生となにを話せばいいのだろう。
小皿に取り分けられたシーザーサラダを口に運ぶとニンニクの強い味が舌の上に残った。分厚く切られたベーコンがレタスの上で存在感を放っている。

「解剖は好きか」
「はい?」
 
一瞬自分の耳を疑った。解剖は好きか、だって?
私が彼を見上げると、彼は真面目な顔でローストチキンを切り分けていた。ナイフ片手に器用に鶏肉の塊を解体していく。まさに私は今、解剖の場面を目の前にしていると思った。

「解剖は好きかと聞いているんだ」

聞き間違いなんかじゃなかった。今度は少しイラついたような響きが含まれている。私はとりあえずなにか返さなければならないと思いながら、言った。

「さ、魚を三枚におろすのは好きです」
「三枚おろし……」

天下の医学部様に向かって私はなにを言っているんだろう。それに解剖ではなく、魚をおろす作業は料理である。

「不思議な奴だな、お前は」

すっかり居心地が悪くなってうつむいていたら、ふとそんなことを言われたので慌てて顔を上げた。こころなしか彼の表情は先ほどよりも緩んでいた気がした。
これが私と三成くんの出会いである。三成くんはいざつきあってみると、見た目から得た印象よりも情熱的な性格をしていた。晩夏の浜辺で受けた告白を、私は今でも呼吸をするのと同じくらい自然に思い出すことができる。
どうして彼があんなことを言ったのか。それが判明したのは冬も半ばになってからだった。ちょうど鰯を三枚おろしにして作ったつみれ鍋が食卓に並んでいた日だ。私が尋ねると、そのようなことを聞かれたら普通は敬遠するに決まっているだろうと三成くんは答えてくれた。三成くんは人数合わせのためにあの合コンに連れられてきただけで、乗り気ではなかったのだ。

「この本の山はどうすればいい?」
「それは右端の本棚に入れておいてくれ。貴重な物だから大切にな」
「へいへい」

その大切な物を無造作に床に放りっぱなしにしているのはどこの誰だと思いながら、分厚い本の塊を抱きしめるようにして持ち上げる。見た目以上に重く、ずっしりと腕に負荷がかかった。紙は木から作られているということを強く感じる。そういえば一本の木からはA4サイズのコピー用紙が一万枚以上も作れるそうだ。
三成くんの家の掃除をするにあたって最も苦労するのが、膨大な量の論文やら医学書やら参考書やらの整理だった。家じゅうの床や机にところせましと置かれているそれらを本棚に並べていく。毎年のようにして新たな本は増えていくが、減ることはないので年々かかる苦労は多くなるばかりだ。

「三成くん、同じ本が二冊あるんだけど」
「気にするな。隣同士に並べておけ」

体力も使うけれど、ずっと同じ作業の繰り返しなので精神的にも辛いところがある。

「明日は家にいられるの?」
「いや、明日から今年いっぱいまでは大学に泊まる予定だ。大晦日の夕方ごろには帰ってくる」
「わかった。じゃあ本の整理は今日のうちにやっちゃおうね。あとそれからパソコン貸してほしいな。年賀状書きたいから」
「まだやっていなかったのか……」

例年よりも作業をてきぱきと進めたためか、思っていたよりも早く終えることができた。夕食に二人で鍋焼きうどんを食べてからいつのまにか眠っていて、次に目を開けたとき三成くんはすでに出かけたあとだった。
やたら広い室内に一人でいると、ふと色々なことを考えてしまう。大量の洗い物を洗濯機に放りこんでいるとき。雑巾がけをしているとき。窓を拭いているとき。
押しかけ女房の真似ごとみたいなことを毎年やっている。きっと嫌であれば三成くんの性格から考えるに、はっきりと拒絶の意を彼は示してくれたに違いない。けれど私は本当にそれでいいのだろうか。
実は少し前から考えていたことがある。同棲をしたい、と。
*
夕方ごろに帰ってくると言っていた彼が実際に帰宅したのは十一時をまわってからだった。小走りで玄関まで行くと、幾分かやつれた表情の彼が立っていた。

「おかえり。遅かったね」
「実験用のマウスが逃げ出して、それを探していたら遅くなった」
「今年最後だっていうのについてないねえ。まあ、とりあえずご飯食べようよ。どうせ缶詰してる間ろくなもの食べてなかったんでしょ」

前もって茹でておいた蕎麦に温めた汁をかけてから、その上に刻んだネギと油揚げを乗せる。シンプル・イズ・ベスト。ふわりと幸福そうな湯気が二つの器から立ちのぼっていた。
いれたばかりのほうじ茶を飲みながら

「日づけが過ぎたら初詣行こうか」
「構わんがどこに行くんだ。神社をこのあたりで見たことがない」
「一時間くらい適当に車走らせてれば見つからないかな」

紅白歌合戦を最後まで見て私たちは出かける準備を始めた。
一歩外に出ると冷えこんだ風が体を覆った。こんなに寒かったのか、とジャケットに包まれていた両腕をさする。吐く息が真綿のように白い。
マンションの地下駐車場まで降りて私たちは車に乗りこんだ。最近の女性アイドルグループの顔が全員同じに見えるように、私には車が判別できない。けれどそんな私にでも価値がなんとなくわかる程度には、三成くんは高級な車を所有していた。有名な私立大学の医学部に通えて学生には広すぎるマンションの一室を借りられて高い車に乗ることができるのは彼の実家が裕福なおかげだ。

「しばらく走ったところにあるみたい。ここにしようか」
「任せる」

そっと忍び寄るように車のエンジンがかかる。高級車は音も静かだ。
じっと運転をする三成くんを見る。暗闇にぼんやりと白い横顔が浮かびあがっていた。鼻筋はしっかりと通り、睫毛が濃くて綺麗にそろっている。
三十分ばかり走り続けたころ、空からちらちらと白いものが降ってきたのが見えた。それは一定の早さを保ってゆっくり落ちてくる。

「雪、だ」

私がポツリと言うと、三成くんも気づいたらしく外を見て目を細めてから

「降ってきたか」
「外寒かったもんね」

ふと、去年の雪が降った日のことを思い出す。ひどい雪だった。三成くんの乗っている電車が雪で止まったと言って、彼が私の家を訪れたのだ。学校の最寄り駅からバスで私の家の近くまでやってきた彼の頭や肩には大量の雪が積もっていた。

「あそこではないのか」
「ん、ああ、そうだね。鳥居が見える」

すっと三成くんの人さし指が窓の外を示す。暗闇の中、忘れ去られたようにぼんやりと鳥居が立っていた。
駐車場が見当らなかったので、しょうがなく道路の端に止めておくことにした。車通りも少なさそうな場所だったから多少なら平気だろう。
鳥居をくぐるとすぐ左側に手水舎があり、数十メートル先に社が見えるというような小さな神社だった。古ぼけた、というわけではないけれど、管理をしている人がきちんといるのかどうかも怪しい。実家の周辺で自転車をこいでいると、名前もどんなものを祀っているのかもわからない小さな神社をたくさん見かけたことがあった。ここも同じような場所なのかもしれない。当然、私たち以外に生き物の気配はしなかった。
社の前までやってきてお賽銭を入れてから鈴を鳴らす。錆びついてしまっているのか綺麗に音が出なかった。冬の澄んだ空気の中で、二人分の柏手の音が不気味なほどよく響いた。

「大きなところだと人がいっぱいいるから落ち着かないけど、こういう所はいいね。静かで」
「少々気味が悪くはあるがな」
「……あ」
「どうした」
「言うの忘れてたと思って。昨年はお世話になりました。今年もよろしくお願いします」
「たしかに去年はお前の世話をしたことしか記憶にないな。いや、去年だけではなく、一昨年も、そのまた前の年も、お前を世話した記憶しかない」
「ええ、絶対そんなことない。だいたい衣食住の面倒は私がやってあげてる」

わずかに頬を膨らませながら、三成くんを仰ぎ見て言う。
そのとき、ふいに二人の視線が絡みあった。時間が止まったような気がした。きっと、言うなら今しかない。私は強くそれを思った。

「ずっと考えていたことがあるの」
「考えていたこと?」

私はゆっくりと呼吸をしてから、言った。

「一緒に暮らそう」

たった一秒の沈黙でさえ、今の私には何十分、何十時間のように感じた。 
三成くんの肩越しに、煌々と光る月とそれに照らされるようにして降ってく
る雪が見えた。彼の右腕が動いて私の方へと近づく。ぎゅっと目をつぶると鼻
頭に人の指の感触がした。思わず憮然とした。
私は薄目を開けながら

「な、に」
「鼻に雪がついている」
「ちょっと、今の話ちゃんと聞いてたの。少しは真面目に答えて――」
「異論はない。だが、本当は私から言うつもりだった」

急に強い力に抱きこまれて距離が近くなる。
それから私たちは互いに引かれあうようにしてキスをした。軽く触れるだけ
のキスだった。三成くんの唇は寒空のもとですっかり冷たくなってしまっていて、ざらざらとした乾いた感触がした。
唇同士が離れると、私は一呼吸置いてから気になっていたことを尋ねた。

「三成くんの家に来てから思ったんだけど、三成くん家のお風呂最近使ってなかったよね」
 
私の質問に対して、彼はどうして今そんな質問をするのかというような顔をした。しかし、しばらく考えるそぶりをしてから

「勉学の方が忙しくてな。いつも大学のシャワールームを使っていた」

と言った。

「やっぱり。変だと思ったんだよ。石鹸もシャンプーもボディーソープも全部中身がいっぱいだったし、浴室が異様に埃臭かったから。
私は来年で学校を卒業するけど、三成くんにはまだ先があるでしょう。しかもこれからどんどん忙しくなる。私思ったの。このままでいいのかって。今だってときどきご飯を作って、年末にはああやって押しかけるように三成くんの家の大掃除をしてるけど、それって結局なんだろうって。たしかに私は三成くんの彼女だよ。でもきっと、それ以上に私は三成くんを支えたい。だから一緒に暮らそうと考えたのかもしれない。なんか、お節介なおばさんみたいだけどごめんね」

口では言わなかったけれど、私は三成くんに幸せになってもらいたいのだと思う。三成君を私が幸せにしたい。
そういえば以前読んだ小説の中に「自分が他人を幸福にできるなんて発想は、そもそも行き過ぎなのかもしれないよ」という台詞があった。そう口にした登場人物は、そうできるはずだと確信することは傲慢だとも言っていた。
 たしかに彼の言ったとおり私は傲慢なのかもしれない。けれど最終的に判断するのは私ではない。それは、私が幸せにしたいと願っていた相手だ。

「詩織」
「うん?」
「私はそんなお前を心から愛おしいと思う」
「……ありがとう」

ゆっくりと雪を運んだ風が私たちの横を通り過ぎていく。朱色の鳥居が白い薄化粧に染まりはじめていた。



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