切り立った崖の下には、虚無しかない。
黒々とした姿を横たえ、それは気だるげに身体を捩らせて此方を見上げている。
そんな崖を覗き込んでいるルイをシリウスは尊敬した。自分ならばまずそんな怖いもの知らずな事はしたくない。
雪が落下していくのはニュートンの法則にきちんと則ったものであるので、別段奇妙とかおかしさなんて本来ならないのである。
けれどもその悲しげな白を溶かして崖の底へ落ちて行く様を、ルイは何故かしっかりと目を見開いて凝視していた。
彼女だ。シリウスはその確信をしていた。
自分もルイも知らない、そして恐らく、自分やルイも、誰も知るはずのない何かを知っている人物。
一度は愚かさ故にその怒りを買い、その杖を自分の喉元へ突き付けて来た人物。
どうして、と思わず問いかけてしまいたくなるのをシリウスはグッと喉を詰まらせる事で我慢した。漆黒の間から獲物を狙う獣さながらの視線を突き刺して来たあの目の怪しい光を、シリウスは忘れた訳ではなかった。
「此処からね、」
「…??」
不意に口を開いた彼女の背中を見る。
今にも投身自殺してしまいそうな位に暗闇を覗き込んでいた身体を伸ばし、ルイはあの闇色に沈んだ目で此方を振り返った。
「落ちたの。」至って簡素に淡々と。まるで呼吸するのと変わらない仕草で、彼女は告げた。
吐き出された言葉に、白は滲まずにいた。
「最後まで誰かを呪って、落ちたの。
最後まで世界を愛して、落ちたの。」
潜り込んで混ざり合った記憶の中で。
彼女はただひたすら愛を叫んでいた。
最早それが自分のものなのか、それとも彼女の忘れざる記憶なのか、判別する事さえ難しい様に思えたけれど。
それでも悲しさは、乖離したままだった。
「…貴方が、ルイを探す人??」
目の前のちっぽけな存在に笑いかければ、イエスノーを渋る彼の瞳が雪へと逸れた。
黒く滑らかな髪、俯かされた灰眼。
何処か懐かしいそれに、ルイは笑う。
そして静かに…残酷を紡いだ。
「彼女を救えるとでも思ってるの??」それは、一番聴かれたくなかったらしい。
灰眼を見開いて、一気に燃え上がった激情を何とか飲み込んだのがすぐにわかった。
事実、彼は彼女を救えやしなかったのだ。
一度逃がしたものを再び手に入れたいと願うのは、それは傲慢だとルイは思う。
目に見えるものも見えないものも、一度離してしまったその瞬間に、再度それを手に入れる資格などないのだと思っている。
何よりも大事なのは、ずっとそれを離さない事だ。手が引きちぎれて巨万の激痛を味わおうとも、それを離してはいけないのだ。
「(…なのに、ふざけるな。)」
一度逃がした幸せも、一度拒否した悲しみも、もう一度受け止めてしまおう??
それは何て愚かで麗々しいのだろう!!
ふざけるなふざけるなふざけるな!!
遺された幸せがどんな気持ちを味わったのかすら分からないままで、自分の感覚だけでそれを決めつけてしまうなんて馬鹿らしくて哀れで涙が出る!!!
忘れない事が幸せなのだ、離さない事が幸せなのだ。一時も気を抜かず、死に物狂いでそれを掴み続ける事が幸せなのだ!!!
なのに、ふざけるなふざけるな!!!
幸せを手離した人間が幸せなんて、一体誰が赦したのだ!!!
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