ザザザザザ…森の中の空気は擦りきれてしまうのではないかと思う位、ナイフの様に冷たかった。
ぬかるみのついた靴は然し、限界に近付きつつある足の感覚を麻痺させてくれる。
無言の恩恵に、涙さえ感じた。
酸欠で回らない頭を必死に上げて見上げた空は、早々と過ぎ去って行く曇り空の切れ間から覗くのは、ゾッとする程美しい満月。
『*****』
後ろから聞こえるのは、愛しい声。
胸にくすぶる微かな戀情が、その所為でムクリと頭をもたげた。
体が発したのは、幼きが故の危険信号。
…どんなに、愛しくとも。
どんなに愛していようとも。
私はもう、振り返る事はしないのだ。
頭を振って名残惜しさを振り切り、再度前を向いて走り続ける。
後ろから迫って来る複数の音。
最早、それに人種の差別などなかった。
脇を通り過ぎる風は、被って来ていたはずの帽子をいつの間にか吹き飛ばしている。
風を掻き分けていた腕は遠心力で血が回っておらず、拳を握れば手がかじかんでいる。
歪んだ世界を指で強引に拭った。
後から後から零れて来る熱い雨を止めてくれるのは、彼ではなかったのだ。
走る。走る。走る。
自分の中の一切合切の感情を消し去る様に。
あわよくばこの風に紛れて、自分の手の届かない場所に吹き飛ばされる様に。
膝小僧は既に、切傷で血だらけで。
伸び放題の雑草をほんの少し恨んだ。
ザアァ…突風で木枯らしが頬を霞めた。視界が急に開け、月明かりは目をくらませた。
ガクガクと震える足を、寒さが襲う。
既にその瞳には、彼女は映っていなかった。
後ろから踊りかかったのは。
銀色の光に狂喜する獣の雄叫び。
闇色の瞳には、その体に染み込んだ鉄錆びた臭いが、しっかりと焼き付いた。
私はただ、この世界を。
(嗚呼、過ぎていく時間が戻るのなら。
私は久遠の苦しみの中でもその時間を自分に繋ぎとめておこう。)愛したかっただけなのに。
(嗚呼、その瞳にもう一度映れたのなら。
私は一番に、貴方への愛を叫ぼう。)愛していた…だけなのに。
(一瞬でいい。
貴方の言葉で私を殺してくれますか??)自分の息遣いさえ邪魔で仕方なかった。
体は驚くほどに汗ばんでいた。
今だに治まらぬ動悸と体の痙攣が、更に自分を孤独にする。
息は荒く、部屋に響く整った寝息とは酷くかけ離れている様に聞こえた。
脂汗、とでも言うのか。
髪は水分の少ない汗でじっとりと濡れていた。
孤独が、体を侵蝕していく。
どうしようもない空虚感が喉からこみ上げる。
それに耐え切れず、思わず自分の体を抱きしめた。
カタカタと音を出すのは何の事はない、自分の歯だった。
ほんの少し開いたカーテンからは、外の冷気を運んで来たかのような、冷たい色をした月光が漏れている。
漆黒の髪が自分を労るかの様に顔にかかった。
どの位、そうしていたのだろうか。
青白い月の光が、優しい桃色に変わったのを見れば、相当な時間が経った事に気付く。
体はまだ、震えている。
恐怖故の痙攣もまだ、体の芯に残っている様な気もした。
ルイは頑なに自分を抱き締めていた腕をゆっくりと開いた。
白い肌に包まれたその腕は、あまりにも弱々しかった。
必死になって掴んでいても、何もかもが指や手の平の間から零れ落ちてしまうのではないかと思う位だ。
しかしルイはその腕をもう一度、胸の中に抱きしめた。
…どんなに力が無くても。
どんなに大切なものがすり抜けても。
それをまた拾い集める位の浅はかさなら。
ルイはベッドを抜け、着替え始めた。
彼女の温もりの残るベッドは、いつ彼女が泣きながら飛び込んで来ても良いように待ち構えている様だった。
「あれ…リリー、一人??」
「珍しいな、ルイはどうしたんだ??」
リーマスとシリウスは怪訝そうな顔をした。
いつも燃える様に赤い髪の隣で、遠慮がちに揺れている漆黒は、今日はいなかった。
リリーの目に視線を向けるが、彼女は何だか酷くソワソワして見えた。
「朝目を覚ましたらいなかったのよ。
談話室にも居ないし、もしかしたら大広間かもって思ったんだけど…」
「他の人に聞いてみた??」
「えぇ、でも皆知らないって…」
「アイツは…朝っぱらから人に心配かけてんのかよ(汗)」
「…何か、あったのかな。」
彼女が人から離れる時は、ロクな事がない。
承知済みのその事実に不安が募る。
「…まぁ、探しに行くのは朝食を食べてからでもいいんじゃない??
僕らもまだ来たばっかりだし、後から来る可能性だってあるし。」
場を和ませる様に、ジェームズはミルクティを一口飲んでゆっくりとそう言った。
その言葉に幾分落ち着いたのか、リリーは素直にピーターの隣の席に座る。
いつもゴミ虫の様な扱いをする癖に、こういう時いつもリリーが頼りにするのは、やはりジェームズなのだった。
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