ヒスイノニンギョ
その日、ナマエは学園を出て賢者の島の海岸沿いまで来ていた。
学園長におつかいを頼まれ、海岸沿いでぽつんと営んでいる怪しげな店へ予約した何かを引き取りに行った。運び屋として中身を暴こうなんて無粋な考えは捨てた。生まれてからずっとひとりで外に出ることはほぼなかったので、ナマエは清々しい気持ちで街を歩いた。
――謎の実を数個おまけしてもらえたって言ったら学園長も使える小娘だと思ってくれるかしら。
せっかくだからと舗装された道ではなく、砂浜を歩く。海を見るのは初めてだった。
ナマエは熱砂の国から持ってこられた数少ない自分のものである腕時計をちらりと確認した。思ったより早く予定が終わったので、少しくらい海を眺める時間がありそうだった。
ゴツゴツした岩がいくつか並ぶ浜辺で、海に近寄ってみる。せっかくだからと靴を脱いだ。
給仕服以外ナマエの身につけているもののほとんどがナイトレイブンカレッジの卒業生が寮に忘れていった服だったが、靴は「大は小を兼ねる」ことができなかったのでミステリーショップで取り寄せてもらった。
「わぁ、すごい。本当に勝手に水が動いてる……。」
ナマエは「波」を見るのも初めてであった。
「いつか、海に入りたいな……。」
長いこと部屋にひとりでいたからか、好奇心も独り言も多かった。海へ足首まで突っ込むと、わぁと感嘆の声を上げた。
「いつかと言わず、今はどうですか?」
「え?」
独り言のつもりが、思わぬところから返事が来る。自分の足元から響くように聞こえたような気がした。
瞬く間にナマエは足首を何かに掴まれて海へ引きずりこまれた。思ったよりもすぐそこから深かったらしく、どぼんという大きな音とともにナマエの身体は全身海に浸かった。
海の中は想像より暗かった。光は地上からこぼれるものだけで、地上から離れれば離れるほど暗闇が広がっている。
泳ぎ方を知らないナマエは、パニックになりながらもがいたが、ブカブカの服が身体の自由を奪った。
――怖い、死んじゃう……!
ぼこっと口から空気がもれた。死を覚悟した時、海中でナマエは誰かと目が合った気がした。
息が吸える、と思った瞬間に咳き込んだ。
目を開けると海の中と違い明るく眩しい。日の傾きから、時間はそれほど経っていないように見えた。
「ごほっ……、だ、れ……?」
眩しさと同時に認識したのは人の顔だった。人の顔と呼ぶにはエラや色や質感が違う気もした。翡翠色みがかっているように見えるのは、自分の意識がはっきりしないせいだろうか。
「これは失礼しました。まさか自力で浮くことさえできないとは思わなかったんです。」
ぼーっとしていたせいでよく声が聞こえなかった。前に垂れる長い髪を片手でかきあげると視界がクリアになる。やはり人とは思えない部分のある男性がいる。
ナマエはその左右違う目の色に見惚れてしまった。特に金色の方がとてもきれいだと思った。よく見ると、下半身には本来あるべき脚がなく尾ひれが存在した。
「……人魚……?」
ナマエがじっとその人の顔を見つめた。
「人魚を見るのは初めてですか?」
「はい……とってもきれいですね……!」
「ストレートな褒め言葉をありがとうございます。」
人魚は上品に笑った。あまり嬉しそうには見えないなかなか本性の見えない笑い方だった。
「助けていただいてありがとうございます。」
ナマエは毛先からぽたぽたと雫を垂らしながら屈託のない笑顔で言った。その人魚――ジェイドは少し間を置いてからくすりと笑った。
「どういたしまして。」
イタズラ心で海へ引きずりこんだのはジェイドであったが、ナマエは気付かずに命の恩人だと思っている。ジェイドはそんなナマエの愚かさを内心笑った。「山を愛する会」を立ち上げたばかりのジェイドは、初めての課外活動を終えてナイトレイブンカレッジへ戻る途中であった。山を愛した後、故郷である海を愛するのもいいかと軽い気持ちで立ち寄ったが、まさか海も人魚も知らない女性がいるとは思わなかった。
「あっそろそろ行かないと。」
長い髪を横に流して海水を絞った。死にかけた上に濡れてしまったが、海に入れたことは嬉しく清々しい気持ちだった。一体なぜ海の中に入ってしまったかはよく覚えていなかった。ナマエの足元は水たまりができていて、サラサラの砂浜に海水をしみこませていた。
「おや。そのままお帰りになるつもりですか。」
「え?」
ジェイドはマジカルペンを取りに行くか少し考えて、まぁこのくらいいいかと風の魔法を使った。ナマエのまわりを春一番のような風が舞い、多少べたつくがあっという間に髪や服の水分が乾いた。
「人魚さんありがとう。」
「いえいえ。対価はいりませんよ。」
「?ありがとうございます。」
ナマエは学園長に頼まれた荷物を持ってにっこり笑って海を後にした。
ジェイドの目にはその荷物が映っていた。学園長が用意した袋には、ナイトレイブンカレッジの校章が印字されている。
まさか同じ場所から来た人間とは思っておらずジェイドは目を見張ったが、すぐ表情を戻した。彼女の帰る場所と同じところへ帰ろうと思った。