窓の外からぼんやりと明かりが入ってきているのを視界の端に捉え、一体どのくらいの時間が経過したのだろうとナマエは思った。
談話室のソファから女子寮のベッドまでは、のろのろ歩いたとしてもあっと言う間に着くだろう。それでも動く気にはなれそうになかった。ナマエにとってシリウスと付き合っていた1年半は、一晩で整理がつくような軽いものではなかった。
さまざまな思い出がナマエの頭の中を駆け巡った。
シリウスから告白された時のこと。屋敷しもべ妖精たちに用意してもらったサンドイッチを湖のほとりで食べたこと。空き教室でこっそりキスしたこと。同級生よりは大人っぽいが、笑うと子どもっぽくて、シリウスのその笑顔が大好きだった。
ホグワーツに入学してから5年――その半分以上はシリウスとの思い出だった。たしかに、ここ半年くらいはとてもうまくいっているとは言えなかった。シリウスと会うたびに些細なことで怒らせてしまったり、他寮の女の子と一緒にいるのを見かけて傷ついたり。嫌な思いもしたはずなのに、今はそれがすべてどうでもいいことのように思えた。
――今、あの階段からシリウスが降りてきて、泣いているわたしに寄り添ってくれたらいいのに……。
微かな物音に顔を上げると、男子部屋の一室からシリウスが顔を覗かせている。バツが悪そうな表情を隠そうと、顎だけはツンと上に向いていて澄ましてみせている。めいっぱいの強がりな声で彼は言う。
「ナマエ、お前まだそこにいたのか。」
気まずい思いで膝の上で握った拳を見つめて何も言えないでいると、シリウスはナマエのすぐ隣に腰かけた。
「……さっきは言いすぎたよ、悪かった。ナマエの優しさに甘えてたんだ。」
「……。」
「他の女と一緒にいたのも、ヤキモチを妬かせるために決まってるだろ?」
「……これからはわたしだけを見てくれる?」
「もちろんだ。君が俺をまだ愛してると言うのなら。」
まっすぐナマエを見つめるシリウス。シリウスがナマエの言葉を待っている。いつもはナマエが何を言おうか考えている間に突っ走ってしまうというのに。
ナマエは、今この瞬間のための最良の言葉を導き出すために、たっぷり間を使って口を開いた。もちろん、『YES』以外を言うつもりはなかったのだが。
「シリウス、愛してる。これからもずっと一緒にいて……。」
ガチャリ。
思ってもみない方向からの物音に、ナマエははっと現実へ引き戻された。都合のいい夢を見ながらソファに沈んでいた身体を勢いよく起こす。
暖話室の入口に立っていたのは、残念ながらシリウスではなかった。彼の友人だ。
「……ルーピン?」
「ミョウジ?何してるの?」
リーマス・ルーピンであった。なぜか傷だらけのボロボロの姿で。
何をしているかと問われると答えにくい状態だったので、慌ててぼーっとしていた脳をフル回転させてとにかく口を動かす。
「えっと、眠れなくて……って、そんなことよりあなた傷だらけじゃない!こっちに来て、手当てするから。」
誰かと喧嘩してきたのではないかと思われるような、ひっかき傷や打撲の痕。着ている服は土やほこりで汚れていて、外でごろごろと転がってきたのではないかと勘ぐるように見てしまうが、つるんでいる友人はやんちゃだが比較的優等生なリーマスが夜中にそんな遊びをしているとは思えない。それも1人で。
「いや大丈夫、自分で……、」
「『アクシオ』。ルーピン、ここに座って?」
ナマエは談話室にある救急箱を呼び寄せて、ソファに沈む自身のお尻の位置をずらす。ぽんぽんと空いた場所を叩くと、リーマスは面食らった顔をして、観念したようにそこへ腰をおろした。
「君って意外と強引だね……。」
「あら、もう知り合って5年よ?知らなかった?」
「さすがシリウスのガールフレンドだ。」
シリウス――その一言にドキリとしてうまく返事ができなかった。手当に集中するふりをして、その言葉には無言を貫いた。リーマスはそのうち知ることになるだろうが、シリウスとナマエはもう恋人同士ではない。
「いっ……!」
ナマエの気がそぞろになっていたからか、少し強めに消毒用の綿を当ててしまったようでリーマスが痛がった。ごめんなさいと謝ると、慎重に傷口から汚れを取り除いて絆創膏を貼っていく。
「もう少しよ、」
「……っ、」
消毒液がしみるのか、ぐっと奥歯を噛んで耐えるリーマスを気の毒に思った。
フェイスラインのあたりに大きく抉れたような引っかき傷があり、ナマエでなければ卒倒しそうな痛々しさだった。
――まるで魔物に襲われたような傷だわ……。
自分がなぜここにいるのか聞かれたくないからか、リーマスの事情を詳しく聞く気にはなれなかった。真夜中に部屋を抜け出して大怪我を負ってくるのはただ事ではないはずだ。
「この傷……、」
そっと傷口には触れぬよう、リーマスの顎のあたりをなぞると、ああ――と肩を落とした。
「やっぱり目立つよね、この傷。」
ナマエは直感的に、顔に傷が残ることでなく、傷が目立つということにリーマスは落ち込んでいるのだと思った。
「傷を知られるのは嫌?」
ナマエの言葉に、リーマスはどきりとしたようにナマエの瞳を見つめ返した。図星だったからだ。
「……嫌、というか……、」
自分の秘密がバレるのではないか、探られているのではないか、そんな疑心でリーマスはナマエの瞳の色を見て無意識に真意を測っている。
「アー……なんていうか……、動物の体液とかは平気なタイプ?」
「……え?」
ナマエが突然なんの脈絡もなく言うので、リーマスはぽかんと口を開けた。傷が痛くてすぐに閉じたが。
「すごくいい傷薬があるんだけど、動物の体液的なものなの。……気持ち悪くなければ使ってみる?」
ナマエは言葉を選び、迷いながらも提案した。
「たぶんそのくらいの傷なら消えると思う。」
「!」
その一言はリーマスに効果てきめんで――というより、いろんな余計なことを考えていたせいで返事ができなかったが、動物の体液だろうがなんだろうが、リーマスは特に気にしないし、目立つ傷が消えるならばぜひとも使ってほしいところだ。
「ああ、頼むよ。」
「……わかった、目をつむっていてくれる?」
なぜ、とリーマスは思ったが、ナマエの真剣な、でも不安そうに揺れる瞳に従わざるを得なかった。
リーマスが目を閉じたのを確認して、ナマエはリーマスの顎を掴んで傷口を自身に見やすいようにした。
そして、自身の顔を近づけると、その傷口に舌を当てた。
傷口に『何か』が触れたことで驚いたのか、リーマスの身体が揺れたので、ナマエは咄嗟に空いている方の手でリーマスの閉じた目を覆った。
傷口に当てた舌をゆっくり動かして、べろり、とそこを舐める。神経に当たると痛そうなので、ぱっくり割れた皮膚を撫でてそこを埋めるかのように何度か舌を往復させる。
ぴちゃ、と水温が鳴ってしまって慌てて舌の動きを遅くした。
「はい、終わり。」
目元を覆っていた手と、顎に添えていた手を離す。
リーマスは何が何だかわからない上に、ぼんやりと暖炉の火の明るさが戻ってきて目を瞬かせる。
リーマスに気付かれぬよう密かに、少し血の味がする自身の唾液をコクリと飲み下した。
「傷が……、」
リーマスは自身の頬あたりにあった傷がなくなっていることを手のひらで確認して、はっとしてナマエを見た。ナマエは救急箱を片付けていて目を伏せている。
「ミョウジ……、」
リーマスは口を小さく開けては、迷ったように閉じて――そのまま閉ざした。
――秘密はお互いさま。