アザレアの涙
彼が笑顔で花をくれた時、胸に何かが満ちるほどにとてもうれしかった。
2人で船に乗って朝焼けに燃える海を見た時、はじめて誰かの前で涙が出た。
打ちひしがれている彼と一緒に眠った時、ベッドの中で、彼の冷たい絶望がわたしの身体に流れ込んでくるのをぼんやりと感じた。
思い起こしてみてもわからない。わたしたちは傍からみたら恋人のように見えたかもしれないけれど、一度だって互いの持つ男女の身体を交えなかった。何度もキスがあったけど、そこに性的なものはなかったよう思える。
ブチャラティ。あなたはわたしをどう思っていたの。わたしはあなたを、どういう種類であるかはさて置いて、とても愛しているよ。それはこれからも変わらずに、熱を持っている。それしかわたしにはもう残されていなかった。
床に倒れ伏してから殴られたのだと気がついた。なんだこの男は、顔を拝んでやろうと思って起き上がる時には腹を蹴られていた。無様に仰向けに横たわったわたしの胸ぐらを掴んで引っ張り上げる男は黒い髪をしていた。背が高くて細身で黒い髪。その条件は全て同じなのに、あの人とは似ても似つかない。この男だって顔が悪いはずじゃあないのに、どうしてだろうか。
もう一度頬を殴られた。痛みを感じながら、服をまくり上げられながら、彼に会いたいと思った。もう会えないことをよく知っているからこんな風に思うのだろうか。犯されて殺されて、そうすればわたしは彼のところへ行ける?
「ナマエ」
だれかがわたしを呼んだ。
わたしのスタンドが動かなくなってもう何年も経つ。わたしは1人で暮らしていた。風のように現れた眩い男の一言で、力を失ってしまったわたしは、こうして普通の女になった。
だから普通の女は、普通の麻薬中毒者の男に殺されるみたいなのだ。
「そんなんじゃあないだろうきみは」
頭の上の方から声が聞こえた。誰だろうか。こんな薄暗い路地で、ラリった男に女が襲われているのを見たら、きっと大抵の人は逃げてしまうと思うんだけれど。その声があの人のものに聞こえるのだから、きっと幻聴だろうな。なんて都合がいい頭をしてるんだろう、わたしは。
抵抗もやめてしまったわたしの、下着を破かれ捨てられた脚の間に、男の身体が割り入った。気持ち悪い熱を感じる。それは自分の身体がどんどん冷たくなっているからかもしれない。
「助けることは容易いけど、きみには必要ないはずだよ」
やっぱり彼の声だった。
2度目は確かに耳に届き、わたしが硬く閉ざしていた目蓋を持ち上げる頃に、男が後ろの方へと豪快に吹っ飛んだ。汚らわしいブツを晒したまま、奴は路地裏の奥にあるゴミ捨て場に落っこちた。その拍子にネズミが何匹か走って逃げて、消えていった。きみたちの食事を邪魔してしまったかも。ごめんね。
わたしの頭の横に固く握られた拳があった。それはよく見慣れた、しかしとても久しい、わたしのスタンドのものだった。じっと目を合わせる。わたしの精神の分身がそこに居て、ぼうっと消えた。戻ってきたのだ。眠っていたそれが、わたしの中に。
はだけた服を直しながら、冷たい路地裏の、汚い地面から、わたしは二本の足で立ち上がった。通りから風が流れ込んで来る。殴られて熱を持つ頬に冷たい風が心地よい。顔を上げた先に、1人の男が立っていた。その人物が、わたしに話しかけていたのだろうか。
「会いたかったよ」
通りを走る車のヘッドライトに照らされて、長いコートを着た彼の影が右から左へと動く。目が慣れないままにおぼつかない足取りで、吸い込まれるように歩く。彼もこちらへと確かな足取りで歩み寄っていた。
胸に倒れこんだわたしを、彼はひしと受け止めてくれた。まるで待っていたかのように、そこにあるのが当然のことだとでも言うように抱きしめた。
わかっていた。そこにブチャラティの匂いはないということに。声だって、耳元で聴くとそれは彼のものよりもすこし高い。だけど涙が出た。息ができないほどに苦しくて懐かしい彼らの一部が、その身体に溶け込んでしまっているような、そういう男が、わたしを腕に抱いていた。
「ジョルノ」
見上げた先に金の巻き毛の男の子がいた。確かわたしとそう変わらない年齢だった。彼はかつて、背中から吹き付ける強い追い風のように、全てを導いていた。チームのみんなを、1人のタフな女の子を、彼女が無意識に恋をした偉大なる男でさえも。
トリッシュ。あなたはもう、あの気持ちに気が付いた?今どうしているの。あなたの切ない曲を、わたしは毎晩聴いているよ。彼女の歌声を聴くたびに思う。わたしも引っ張られていたのだろう。その眩い金色の髪が揺れる様に。
「勝手に来てしまったことを悪いと思っている。それでもきみが恋しかった」
「どうして?わたし……あなたとほんの少しの時間しか過ごしてないわ」
「時間が関係あるの?きみとブチャラティの時間だって、きっとそんなに長くはないだろう」
その言葉で、どうしてだか、わたしはようやくブチャラティがこの世にいないのだと実感した。コロッセオで彼の遺体を見た時も、参列した彼の葬式でも、わたしはたぶん、本質的に彼の死を、あんまりわかっていなかったのだろう。だってずっと前に、あの日一緒に寝た晩に、彼はもう、半分くらいは死んでしまっていたのだから。
「……ジョルノ。来てくれて、ありがとう」
誰かの前で泣くのは2度目だった。わたしを抱きしめる腕が背中を撫でた。ジョルノにとって、わたしの背中が汚れてしまっていることはどうでもいいみたいだった。
何故スタンドを取り戻せたのだろう。とっくに、ブチャラティの死に顔を見たあの瞬間に、わたしの精神の一部もこの世から消え去ってしまったのだとばかり思っていた。
ジョルノと一緒に街を出て、わたしたちはその晩、久しく足を運んでいない墓地へと行った。変わらなかった。彼の墓にはいつでも新しい花があって、その周りに雑草もなく、墓石はピカピカに手入れされていた。
そんなのを見つめながら、隣で手を握る彼に出会った頃、死神かもしれないと思ったことを思い出した。勿論それは間違っていた。ジョルノはただの男の子だ。わたしと歳の変わらない、奥底に柔らかな心を持った、漠然としたさみしさを知るような。
それからあと二つ、墓地を巡った。
結局あの声は誰だったのかな。ねぇブチャラティ、どう思う?
頭の中で問いかけてみても当たり前に返事はない。だけどわたしはちょっとだけ微笑んで、掴まれてばかりだったジョルノの手を、強くぎゅっと握り返した。