よろしければ、内緒話でも
ナマエの家の中で一番使いやすい、バスルームの鏡から侵入した。ダブルボウルの洗面台にはドライヤーや化粧水が片付けられずに散らばっていたので、足の踏み場に困り眉間にシワを寄せながらタイル貼りの床へと降りた。しかしまあ、他人の前であまり隙のない彼女のこういう部分は嫌いではない。
何度か風呂に入っているナマエと鉢合わせて殴られたり、ナマエの機嫌がいい時はそのままおっ始めたりしたが、今日は当の本人がいなかった。湯気がまだ残っているから少し残念である。
バスルームを出て寝室へと向かった。なんとなくそっちにいる気がしたのだ。そしてその感覚は大体間違うことがない。
寝室の扉を開けて中を覗くと、まだ髪が濡れているナマエがソファーのはじに小さく座り、ぼうっと座っているのが見えた。膝を立てて、その上に彼女愛用のしょぼくれたクマのぬいぐるみがある。抱かれるというよりも小さな両手の置き場にされて、何故かやわやわと撫でられていた。
「なんだおまえ、どうした」
背もたれに沈むナマエはぐったりと身体から力が抜けてしまっているように見て取れる。歩み寄って、そばに立つと漸く彼女が視線を上げた。
「あれ、イルーゾォ」
オレを認識して、まずにへっと笑う顔はかわいかった。機嫌が悪いわけではないらしい。すぐとなりに座ってみるとナマエがこちらへ向き、伸ばされた腕に誘われるように口付けた。
唇を離して抱きしめると剥き出しの脚がオレの膝へと少し乗り上げる。互いの身体の間にあるぬいぐるみが邪魔すぎたので退かした。
「なんかあったのかよ」
「なんも」
「よくわかんねぇやつだな」
「うるさいなぁ。殴るよ」
「やってみろマヌケが」
「……」
「イッテーな!髪引っ張んな!」
膝に乗るように抱き寄せたナマエが子供みたいにオレの髪を引っ張った。その手首を掴んで顔を覗くと、やはりぼんやりとした顔をしていた。
黙ってすべらかな手を握り、また口付けた。ナマエは大人しく膝の上でキスに応える。断続的に、長々とそういうのを続けた末に、ナマエが呟いた。
「ねぇイルーゾ。髪ほどいてもいい?」
「……勝手にしろ」
ナマエの両手が頭の後ろに回り、ゆったりと、一つずつ髪留めが外される。それを彼女の真剣な、どこか盲信的な顔つきに見惚れながら髪に触れられると、何とも言えない感覚に支配される。
オレの髪はすっかり彼女によって解かれ、肩にかかったり、胸の方へと落ちたりした。ナマエの淡い色が塗られた指先がそれを触って、掬って、時折熱心に口付けたりした。映画のショットみたいに美しい様に見惚れる。愛らしい顔つきだが、成長の余地をほんの少し残した女の顔も身体も、決して完璧とは言い難かった。
自分で言うのも何だが、他人を称賛したりする人間ではない。オレは完璧なモノが好きだ。見目の整った自分の容姿も、そんな自分の精神エネルギーが生み出すこの能力も。女の趣味だって、特徴がないくらいに美しく整った顔つきや出るところのでた身体が好きだったはずだし、その好みは今でも特に変わってない。
それでもこのナマエを格別に美しいと思う。肉の少ないのに柔らかな身体も、うっすらと見えるそばかすが余計に幼く見せる顔つきも、不機嫌な時の傍若無人な態度も、こちらの思い通りにいかない奔放な人間性さえも、何故だか夢中にさせる。
例えこれからそういう要素が、この少女が歳を重ねることで変わってゆこうとも、変わらずにずっと腕に収めていたいと強く思うだろう。そういう確信がある。
だから気分がいい。彼女がオレの腕の中にいるってことは。
「……おまえはオレの髪が好きだなァ?」
悦に入り、笑ってそう言えばまた髪に口付けていたナマエが瞳だけを動かしてこちらを見つめる。上目に見つめられると、ナマエの目の造形や、その奥にある底知れなさによって生み出される目力が、オレを捕らえて離さない。
撫でていた腰から服の裾に手のひらを潜り込ませた。あばらの形を確かめるみたいに手のひらで撫でる。ぴくりと体を揺らし、オレの髪に指を通して、彼女から甘えるように上唇を食んできた。
脇腹を撫でていた手を登らせると下着をつけていない柔らかな胸に触れた。手のひらで包むように潰してみるとその感触は吸い付いてくるようにふわふわと柔らかい。
「抱いてやるよ」
「抱かせてあげる」
「……かわいくねぇ女だな。可愛がってやらねぇぞ」
「それが好きでしょう。わたしも自信家なきみがけっこう、好きだよ」
生意気な女からゆったりした部屋着を脱がせる。風呂から出たばかりの身体はあたたかく、全身から立ち込めるように甘くいい香りがした。そしてそれとは別に、白い身体のどこかから、頭が変になりそうなくらいに女の色香が立ち昇り、オレの頭の中を麻薬のように侵す。
まるで蜜の香りに誘われた蜂のように、柔らかな胸に口付けて名前を呼ぶ。愛してる、と口をついて出てきそうになって、内心あわてて噛み潰した。
「なんだか、うっとりしてるね」
「……」
「かわいい、イルーゾォ」
膝の上ではあはあと息を乱しているくせにナマエがオレの頬を撫でてそう言う。自分こそ肌を淡く上気させて、瞳をとろりといやらしく潤ませているくせに何を言ってんだ。
頬に伸びた手のひらはやはりオレの髪を触るために頭の後ろにまで伸びた。やけに熱心である。
「今日はいつにも増して手癖が悪いな」
「理由が、あるの」
そう言うと、微笑んだナマエが荒い呼吸の中、言葉を少しずつ紡ぐ。
「んっ、さっきバスタブで、寝ちゃってね」
「ああ」
「夢見て、洗面台の、鏡から、あ!はぁ、は」
「ホラ頑張って話してみろよ」
「んん〜……っ!」
意地悪く彼女の身体を下から揺さぶる。目の前にある小ぶりな胸が揺れた。小さな手に頭の後ろで髪をぎゅうと掴まれているが、その痛みすらもかわいい。甘ったるい声を上げながらもナマエは必死で続けた。
「かがみ、から、イルーゾォが入ってきて。それであなたの髪を、あ、触ったの」
「……」
「でも、起きたら、いなくて……ああっ、あ、あ、だめイルーゾォ、きもちいよ」
「好きなだけ触れよ。そんなのを許すのはおまえくらいだ」
そう言うと尚更髪が引っ張られる気がした。
そんなに恋しいのなら、電話の一本でもかけてこいよと思う。過去に何度かおまえからかけてきたのなんて、仕事についてのことだけじゃあねえか。
眉を八の字に寄せて目を細めるナマエがオレの髪を両手で握りながら、肩口に額を押し当てた。柔らかな甘い匂いが香る。自分でも腰を動かすナマエの中深くを夢中で出入りした。奥にまで誘うように締め付けるそこは狭くて熱くてどうしようもなくどろどろで、繋がった部分から蕩けてしまうような気がした。
落ちていたぬいぐるみを拾いあげ、白い身体がうつ伏せに寝そべるベッドへ戻る。気怠げに身体を起こしたナマエにミネラルウォーターの瓶を渡し、それからぬいぐるみも渡そうとするが、首を振っていらないと断られた。
「もうイルーゾォが来てくれたから」
「どういうことだ?」
「きみの自慢の髪が恋しかったの」
それで毛足の長いぬいぐるみを触っていたのか?そのわりにはオレがそばに来るまで存在に気がつかなかったりと、この女のたまに見せる執着はいつも難解だ。
ソファーの上で何度したのか、ベッドに移動してからも何度したのか、考えてみてもよく思い出せなかった。今にも眠りそうなナマエはぼうっとした顔で冷えた水を喉へと流し込む。そんなのをヘッドボードにもたれて見つめた。
ナマエはベッドにこだわりを持っているらしく、オレがよりかかるそこは木材が剥き出しになってはおらず、ソファーのように革張りになって、均一にボタンが打ち込まれていた。だから心地よい。
風呂に入っているときにオレが鏡から現れなかったことを、ナマエは残念に思っていたのだろうか。もしかしたらオレと同じように。
そう考えながらどうしてか、オレが代わりに、自分の膝に乗せたぬいぐるみを撫でていた。
「……オレはおまえの全身が恋しかったさ」
「なにそれ。変態みたい」
「なっ……!テメェ!このオレにこんなこと言わせておいて!」
「うそだよ、うそ、あはは」
わざと不機嫌な時の顔を作っていたナマエが笑って身を寄せてきた。ろくでもねぇやつ。
オレの脚の間に入って、首に抱きついて、わたしもイルーゾォの全部が恋しい、と確かに囁く。
またクマがオレたちの間で潰れる。はやく髪に触ってくれと思う前に、クシのように細い指が通った。オレもナマエの柔らかい癖毛を撫でる。
よっぽど、この髪の方がオレは好きだった。いい匂いがして、触っているとうっとりしてくるのだ。癖毛が乱れて跳ねていることにひっそりと愛おしさがにじむ。
他の誰にもそんなことを教えてやりはしないが。
「愛してるナマエ」
「え?」
この言葉だって、他の誰にも教えてやるものか。