ラブコール密室にて
ガシャン!と不穏な音が聞こえて大きな揺れが我々を襲った。咄嗟にわたしの肩を抱いた彼に掴まりつつ、二人で顔を上げると、チカチカと天井のボロいライトはわたしたちをバカにするみたいに点滅していた。どうやら突然止まったエレベーターに、我々は閉じ込められてしまったらしかった。
「……このままエレベーターごと、落っこちたらどうする?」
「そんなわけねぇだろ。電話をすればすぐに助けが来る」
「スティッキーで出る?」
「いいや、なんだか少し疲れたんだ。たまには待ってみるさ」
彼らしからぬ言葉を不思議に思いつつわたしが電話を一本かけている間に、壁を背にブチャラティは床へと座り込んでしまった。長い脚を折り曲げてその上に頬杖をついて、ぼんやりとしている様子は珍しい。
わたしもそんな彼の隣に横にしゃがみ込んで、コートのポケットから少しよれた紙製のケースを取り出す。
「いる?」
「……」
差し出した煙草を指先で掴むと彼は黙って一本受け取り、長い指で挟んで唇にくわえた。買ったばかりの安いライターで火をつけてあげようと手を伸ばすとすぐそばに彼が顔を近づける。オレンジの光に照らされる、睫毛を伏せた顔は彫りが深く美しくて、一つ一つの部品は女性的なのに、その全てのバランスはやはり男性のものだった。さっき肩を抱かれた時にも感じたように、彼が男であることをまざまざと感じた。
ブチャラティは普段は喫煙しないけれど、時たまこうしてわたしの一服に付き合ってくれる。
「あの男は誰だ?」
「ん?」
「さっき一緒にいたやつだ」
煙を吐き出した彼がそう言う。ぼうっと、硬く閉ざされた扉を見つめて、そんなやついたなあと思い出す。ブチャラティとついさっき待ち合わしてこのビルに来る前のことだ。あの男の人は彼を見たらそそくさと逃げて行ったが。
「知らないひと。声かけてきたからご馳走してもらったの」
「知らない奴に手を握らせて、キスもさせるのか」
「どうして怒ってるの?」
「怒ってねぇだろ」
「あはは、怒ってる」
思わず笑ってそう返し、唇からフィルターを離すと隣の彼の顔を見る。彼にはいつも兄みたいなことを言われるから、その度に笑ってしまう。
「あなたまるで、わたしに恋してるみたい」
ケラケラとわたしは笑っていた。いつもの軽口を叩いているつもりだったから。
しかしブチャラティはわたしのふざけた言葉に黙り、じっとこちらを見つめた。わたしもつられて黙ってしまう。今日の彼はやはりどこかおかしい。なんだかその視線は怖かった。
思わず立ち上がったわたしは煙草を落としてしまう。エレベーターの中で、追いかけるように立ち上がった彼を見上げながら後ずさった。彼も煙草を捨ててしまう。彼は二つの真っ直ぐな瞳でわたしを見つめ、これ以上逃げようもなく壁に背をつけてしまったわたしに、容赦なく距離を詰めた。
エレベーターの中は少し寒いのに、コートの中で背中が汗ばむのを感じた。
「狂いそうなほどに、だ」
「な、にが」
「おまえが言ったんだろう。オレはそれほどに、おまえに恋している」
「どうしたの、冗談なんて、らしくないわ」
「オレがそんな冗談を言うとでも?」
塗装が剥げた手すりを握っているわたしの手を、彼がその上から握った。どうしてドアが開かないの。はやくみんなで拠点にしてるあの部屋に行きたい。あそこへ行けば、きっとブチャラティもいつも通りに戻るはずなのに。
「墓穴を掘ったのはおまえだ」
「ごめんなさい……!」
「謝るのも違う」
彼の顔が近づくものだから、慌ててわたしは顔を背けた。首に巻いていたマフラーをするりと解かれ、首筋へと口付けられる。肩を揺らして声を漏らした。びっくりしてしまった。この状況にというよりも、自分が男の人を前にこんなに緊張して、焦っていることについて。
恥ずかしくてしょうがない。どうして目の前の男にこんなに五感を支配されてしまっているのだ。
くそ、こんなボロエレベーター、はやくぶっ壊してしまえ!わたしとこの人を閉じ込めやがって、なんだかおかしなことにしやがって、ただじゃあおかないからな。
なんて、罪のない機械に苛立つのは余裕がない証拠だ。
「あ、いや」
「あの男は良くてオレはだめなのか?」
「待って待って、おかしいよ、やっ」
「おかしいのはおまえも同じだ」
顎を指先に掬われ、彼の顔を至近距離で見つめることになった。いつのまにか身体が密着している、とそう思った時には唇が重なっていた。唇と握られた手から広がるように身体が熱を帯びる。彼の舌はひどく熱く思えた。床に落ちた二本の煙草は相変わらず、寂しく煙を上げているだろう。エレベーターの中は煙でいっぱいだ。そんなところでキスをして、わたしたち、窒息死しちゃうんじゃあないだろうかと、すでに酸素不足の頭でぼうっと考えた。
唇が離れる頃。気がつけばコートの前が開き、その中に彼の手が伸びていた。服の上から腰を撫でられただけで全身を甘い感覚が蝕む。キスってものはあんなに気持ちよかっただろうか。男の人ってのは、こんなにもわたしをドキドキさせる生き物だったろうか。心臓が早鐘を打つのは、この相手が上司だからなのか、兄のような男だからなのか、それとも。
「なんだか」
「ん?」
「わたし変だ、ブチャラティ」
彼の手を掴み、そっと自分の胸に当てた。心臓の音をわかってほしい。そしてどうにかしてほしかった。彼ならばそのやり方を知っているんじゃあなかろうか。彼はいつでも、わたしを導いてくれるのだから。
ブチャラティは静かにわたしの心臓の音を確かめて、それから唇を開く。
「オレと同じくらいだ」
「……ほんとう?」
「ああ」
わたしの手を、今度は彼が自分の胸へと導く。驚いたことに彼の心臓も早鐘のようだった。そんなことをしている間に、手摺りにあった彼の手がわたしの丈の短いニットの裾から潜り込む。どうなってしまうんだろうか。わたし、このまま彼と、こんな場所で?それこそ窒息死しそうだけど、しかしそれも悪くないのかも。
ガタン、と大きな音が聞こえたのはそう考えた瞬間だった。エレベーターがまた大きく揺れて、ブチャラティはまたわたしを、まるで大事なものかのように胸に抱き寄せた。彼のコートのボタンが首に触れて冷たいなと思うと、止まったエレベーターのドアがひしゃげた音を立てながら上下に大きく揺れて開いた。
「ブチャラティ、ナマエ!」
覗き込むように扉から顔を出したのはナランチャだった。
どうやら彼のいる階の床から、我々の乗るエレベーターの床は扉の半分ほど低くずれてしまっているようであった。ナランチャは床に這いつくばり、その隙間からエレベーターの箱の中に腕を伸ばしてくれる。ブチャラティに促されて先にその手を掴むと、わたしはナランチャに引っ張りあげられて、彼と一緒にビルの廊下の床に雪崩れ込んだ。
そういえば今気がついたが、わたしのコートの前はいつのまにかきちんと閉じられていた。
「大丈夫だったかよ?」
「う、うん。すごくびっくりした」
「……なんか動揺してねぇ?らしくないけど」
ナランチャはわたしに怪訝な顔を向けた。続いて一人で高い段差を登って来ていたブチャラティはとっくに立ち上がり、わたしたちをちょっと笑って見下ろしている。そんな彼は少し機嫌が良さそうに見えた。
慌てて立ち上がって、わたしのせいで床に尻餅をついているナランチャへと手を伸ばす。ナランチャとほとんど抱き合うみたいになっていたのに、さっきの心臓のうるささは全くなかった。
エレベーターの中、わたしがブチャラティの腕の中にいたことをナランチャが不思議がらなかったのは、こういう非常事態に彼らは決まってそばにいる人間を守ろうとするからだ。今もわたしは助けてくれたナランチャに抱き寄せられた。よく考えてみると、こういうのってそんなに珍しいことじゃあないよな。いや、でもさっきのエレベーターの中でのブチャラティはおかしかったよね?
わたしたち、キスをしたよね……?
前を歩き始めた二人の背中をとぼとぼと追いつつ、つらつらと考える。どうやらここは4階だったらしい。わたしたちが集まるために時折使っている部屋は6階だ。
わたしは妙な怒りに駆られていた。頭に血が上って、無機物に怒っていた。あんなおんぼろエレベーター、二度と使うものか。ダイエットのためにもこれからは階段で登ってやる!
しかしこれは怒りというよりも焦燥に近い気がする。
「ブチャラティ、なんでスティッキーを使わなかったんだよ?」
「不調でな。それに彼女に話があった」
「話ィ?どうせ怒られたんだろ、ナマエ」
振り向いたナランチャが悪戯っぽく笑う。そうだよな、ナランチャだってそう思うんだから、やっぱりさっきのは何かしら別の意図があったんだろうな。だってブチャラティのことだし。当の彼も振り向いてわたしを見やった。
「あまりふらふらするなよ」
そう言いながら、彼は不敵に笑っていた。
そんなのを見せられるとさっきのエレベーターの中でのあれは全て、わたしへの警告めいたメッセージを送るための冗談だったのではないだろうかとさえ思えてきた。
なんだか妙に恥ずかしくなってしまったわたしは、駆け寄ってナランチャの腕を掴むと反対にいる彼から隠れるように歩いた。ナランチャは最初、なんだよくっつくなよって不満そうだったが、何かしら察してくれたのか、腕を振り解きはしなかった。
今夜は眠れそうにない。どうしてくれる、ブローノ・ブチャラティ。