Blank Space
冬は寒いけど悪くない。
どうして長袖を着てるのかって、きいてくる人はいないから。
ギャングの世界ってのは悪くない。
流れにさえ逆らわなければ、わたしの服装についてとやかく言ってくる人はいないから。
それを与えてくれたのは一人の男だった。決まり事も、言葉にしないようなタブーも多くある世界を日々泳ぐのは骨が折れるが、しかしそれでもわたしにはとても居心地が良かった。味わったことのない種類の自由があった。彼のくれた恩情のために日々走り回る。それがわたしの幸福だと知った。
わたしの手首をざらついた親指の腹がなぞった。顔を上げると、伏せられた黒い睫毛が見える。彼の顔立ちははっきりしていて、その瞳はいつも何かを見定めるかのように静かで、深海に閉じ込められた海水のようだった。
今もそうだ。じっと、わたしの血管が少し透けて見える手首を彼はじっと見つめる。
それが熱を孕む瞬間を見ることができた人間は、この世にどれだけいるだろうか。
暗い部屋の中で服を脱がされて、我々は事に及んだ。終わってしまうとなんだかとても心地良くて眠たくてうとうととしていたわたしは、うっかり服を着たり毛布をきちんと被る前に、枕元の灯りをつけた彼に身体を、手首を見られてしまった。
ほとんど無意識に名前を呼んだ。しかし返事はなく、彼は目を伏せたままに、わたしの手首を持ち上げて、一番太い血管の上のあたりに口付けた。それから彼の頬に当てられて、わたしの手のひらは彼の髪に触れた。迷いなく行われた一連の動作を、裸のわたしは乱れたシーツの上にぺたりと座って、ぼんやりとした気分で見つめていた。
「きみが好きだ」
はっきりとした声が耳に届いた。その言葉は余計にわたしをぼうっとさせて、まるで夢の中にいるような気分にさせる。
この男はいつもそうだった。安っぽい言葉をいくつも言ってくる男とは違い、仕事をこなす日々の中でも、お酒が入ってわたしをここに誘うまでも、あまり無駄口をきかなかった。彼は大切なことも黙っていることがよくある。わたしはそんな物静かな彼に触れられてキスをされて、浮いたような気分にさせられていた。
だけどこうしてたまに、確かな言葉をくれる。故にその言葉には力があった。他にはないような、胸の内を切り開いて入ってくるような、暴力的で恐ろしい力。
なんだかずっと、わたしの人生は隠してばかりだった。しかし枕元のオレンジの光のもとになにも隠すものもなく、わたしはまたシーツに横たわる事になった。彼の手はわたしの全身を確かめるようにくまなく撫で、彼の唇はわたしの全身を慈しんだ。
さっきの初めての行為とは違って、とてもゆっくりと事が進む。それは激しく衝動的なものよりもよっぽど怖いものだった。ブローノ・ブチャラティという男が、わたしの身体を少しずつ蝕み、暴いてゆくような気がした。
「痛いか」
入り込むのがゆっくりだから余計に苦しく、受け入れているとその形をまざまざと感じてしまう。横を向いて浅く呼吸を繰り返すわたしに彼がそう尋ねた。
否定の意を込めて小さく首を横に振ると、まぶたに唇が触れた。それが離れる頃にまぶたを持ち上げてみると、すぐそばに望める彼の瞳の中の海は、激しく波打っているように思えた。
なんて美しい男だろうか。なんて、なんて優しい男だろうか。わたしはこんな人を他に知らなかった。
いつか、死ぬまでこの人の隣にいることを、この人に切望される女の人がいたら、それはどんな子なんだろう。彼を癒したり、楽しませたりできるような人だろうか。彼は、彼はどんな女の子を愛すのだろう。その瞳の海に、誰が濡れることを許されるのだろう。
どうしてこんなことを考えるんだろう。わたしの手首をまた掴んだ彼が、まるで愛おしげに、今度は手首を舐める。だからそんな考えに至る。馬鹿みたいな、わたしには無縁のことについて。
わたしの口からは勝手に言葉が出てくる。
「……あ、う、死んじゃいそう」
「それは困る」
「はぁ、いっぱいだ」
「なにが」
「あなたので、ここが」
掴まれていない方の手でじぶんの臍の下に触れた。身も心も満ちていた。そんなわたしを、彼はわたしの手首を握ったままに見下ろしていた。ゆるく動いていた腰は止まってしまった。物足りないなと思っていたところ、掴んだままに手首を頭の横、その少し上のあたりに縫い止められる。ブチャラティの力は強い。
身体を起こした彼のもう片方の手が、わたしの手の上に重なる。力を込めて押されると、高い悲鳴が鼻に抜けた。思わず拒否の言葉が口をついて出る。
「だめ、」
「今の声は初めて聞いた」
「ブチャラティ」
「全てを聞かせて、見せてくれ。味も、全部」
「いや、いやだ」
「オレは教えるよ、おまえにオレの全てを」
全ての言葉がわたしに染みる。心臓を開く。誰にも開いたことがないところに、彼が入り込む。
自分の手のひらを上から押されるままに、彼はまた腰を引いて、そしてまた進める。少しずつ早く荒々しくなった。身体を揺さぶられて、下腹部を圧迫されて、わたしは本当にいっぱいいっぱいだった。
媚びるような、聞いたこともない自分の声が彼の部屋に長らく響いた。この部屋には何にもない。およそ一人の人間が生きているようには思えなかった。ブチャラティは一人の時間をどんなふうに生きているんだろう、本当に生きているのだろうか?考えてみてもその姿は、まるで亡霊みたいだ。
だけど目の前の彼はわたしの名前を、人の熱を込めて呼ぶ。その声がどれだけわたしを犯すのか、彼は知らないだろう。
「もう、だめ。ねぇ、もう、あ」
「ナマエ」
耳元で呼ばれてしまえばもう、だめだった。この上なく激しい劣情を彼に対して感じ、気がついたときにはひどく癖になりそうな激しい波の中にいた。ブチャラティはそんなわたしの唇をはみ、少し離れるたびに名前を呼んだ。律動をやめてもらえないそこからはひどい音がぐちゅぐちゅと聞こえてくる。その音を聞いて、もう達しているというのに、余計にわたしの身体は震えながら体液を分泌した。
どうにかなりそうなほどに気持ちいい。まるで都合のいい夢だ。ああ、夢なのかもしれない。それならば整合性が取れるというものだ。だってこの男が、こんな愛おしげにわたしを呼んで、好きだと囁き、キスをするだなんて。
「オレといよう、ナマエ」
甘い甘い誘いだった。そんなことを言われなくたってわたしはあなたの部下だよと、そう言いたいのに、激しく乱れた呼吸がそれを許さない。喉がカラカラなのに涙は流れた。それがどういう種類の涙なのかはわからないまま、わたしの意識はぐったりと微睡に溶けてしまった。
初めて会った日のことを思い出す。心が酷い有り様だったわたしを、彼は暗い瞳で見据えた。そんな風にじっと、わたしの真髄を知ろうとしてくれる人など、わたしは他に知らないと、強く想ったことを。
あの日から既にわたしの中には彼が入ってきていたのだろう。