最後の傷にわたしを選んでくれますように
無遠慮にドアを開けて入ってきた図体のでかい男が眉をひそめたのは、クソッタレに清々しい朝のことであった。
「うるせぇ。何も訊くなよ」
「オレはなにも言っていない」
寝不足のオレにはおよそ似つかわしい小鳥の声が窓の外から聞こえてくる。
オレの胸の上で猫みたいに身体を預けて寝息を立てる半裸の少女。ベッドでそんなことになっているオレたちを見下ろしている、ドアを開けたところで動きを止めたリゾット。何かしらの用事があったのだろうが、他でもないナマエがここにいるだなんて、誰が予想できるだろうか。
「大抵のことで、オレはお前を信頼しているが……」
「黙れ何も喋るな。そいつを閉じて、さっさと消えろ」
「……」
じっとりと特徴的な目でオレを嗜めながらリゾットは下がり、静かにドアを閉じた。後で話を聞かせろという圧力を、隙間なく閉められたドア越しにすらも感じられる。
オレはたまに使うアジトのこの狭い部屋に女を連れ込むことなどないし、リゾットのやつは大方オレが眠っていると思ったのだろう。ノックをしなかったことについて責めたいが、そんなことをしたら余計に、年端の行かぬ少女と朝を迎えているこの状況が爛れてくる。
オレは何もしていない。法律もクソもない世界だが、仲間うちで妙なレッテルを貼られるのは御免だ。もちろん、ナマエの方に。
奴が大人しく出て行ったのは長い付き合いが故の信頼と、今もこうしてオレの胸にあるナマエの寝顔の穏やかさにあるのではないだろうか。
まず他人の前で眠ることすらありえないし、アジトに最低限しか寄り付かない女だ。寝顔を見下ろしながらそんなことを考えていたところ、当の彼女が小さく唸った。
しなだれかかる柔らかな身体に力が入り、身動ぎする感覚。彼女はゆっくりとまぶたを上げた。睫毛が持ち上がるが、その瞳はぼんやりと、自分の頭の乗っているオレの胸元のあたりに向けられる。化粧もなにもしてない、素の彼女の顔は驚くほどに幼く思えた。しかしそれでも揺るがない、年齢にそぐわぬ落ち着いた冷たさ。
ナマエが少し頭をもたげると、今度はその瞳がオレの顔をぼんやりと捉えてしばし寝ぼけた視線を受けた。そして何かの拍子にパチリと目は大きく開かれ、彼女が上体を起こす。着ているシャツの間から、ずっとオレの身体に押し付けられていた柔らかな白い胸が見えた。
「……プロシュート?」
不思議そうに睫毛が瞬いた。どうせ、オレの顔を認識したら飛び退いて逃げ出すのだろうと思っていた。だから予防線を貼ってその腰を捕まえていたのだが、なんとナマエは未だ微睡から抜け出し切れていない腑抜けた笑顔をオレに向けた。また緩んだ頬がオレの胸に乗り、恐る恐る頭を撫でてやると、長い睫毛が伏せられた。
「きもちいい……夢かも」
「んなわけあるか」
「ほんとに?だけど夢じゃないって、誰にも証明はできないでしょう」
柔らかな喋り口調や内容に、込み上げてくる妙な感覚があった。オレの理性も、その理性と一晩中殴り合っていた性欲も、全てを孕んだなにか、肯定的な感情。言葉にしてしまうことは間違っているように思えるほどに尊いもの。
逃げ出す前に少しからかってやるつもりでいた。オレがこいつを抱えたまま一晩を過ごした苦労を考えれば、それくらいは許されるだろう。しかし今やそんな気はオレの中からとっくにに消えてしまっている。正直夢のような気分なのはこっちの方だ。
ナマエの頭を撫でていた手でここからは見えない顎を捉えて持ち上げて、じっと見つめる。彼女もその動きに合わせてゆっくりとまつげを持ちあげると、オレをぼんやり見た。
どうしようもなくかわいいなと、そう思った矢先に、ナマエの方から身を乗り出して口付けてきた。思いのほかこの少女が巧みでエロいキスをすることに驚く。名残惜しげに唇を離すと、うっとりした表情の彼女がまた笑っていた。呟くみたいに自然に名前を呼ばれる。こんな語調で呼ばれる日が来るとは。
「わたしたち、寝たの?」
「寝てねえよ。おまえは泣いてた」
「ほんとに?なんでだろう……お酒って怖いなぁ、災難だったねプロシュート」
まるで他人事のように笑う。笑う顔など、数えるほどしか見たことはなかった。そして中でも本当に可笑しそうに笑う顔なんてのは、今朝が初めてだった。
実のところは泣いてただなんて可愛いもんじゃあない。酒が入ったナマエが突然アジトのこの部屋へ訪ねてきて、縋り付いて喚いて泣き出したのだ。その様子は何かに心の底から怯えきって、安住の地を探し求めているかのような必死さがあった。いつもの自分の周りに膜を張っている少女ではなかった。
ナマエは抱いてくれと、扇状的に服を脱ぎながらオレにせがんだ。こういうことをその年で多く経験してきたことが窺えるような言葉と情景に、思わずぐらりと揺らぐ理性をなんとか保ちつつ、とにかくオレは彼女を腕に収めて宥めた。ここで欲のままに抱いて、この娘が恐ろしいものから逃れられるとは到底思えなかった。つまり、自分でも驚くが、オレはこの少女をどうにかしてやりたいと思う程に、好意的な感情を抱いていた。
抱きしめているとナマエは赤ん坊のように呆気なく眠ってしまった。涙の跡を残しつつも、しかし深く穏やかに。そんな顔を眺めているのは悪くなかった。
今アジトにチームのどいつがいるのか知らねぇが、他のやつをあのナマエが訪ねていたらどうなっていたろうか。奴らはこの少女が泣いて服を脱ぐ姿を見て、どうしただろうか。
「ねぇ、ずっとこうしてて」
たった今胸の上から聞こえてくるのは甘い響きの言葉だった。今度は首元に彼女が頭を埋めたが、思い切り肩を掴んで阻むと自分の身から引っ剥がした。
「……悪ィな、ずっとは無理だ。オレも男なもんでな」
「どうして?」
「どうしてもだ」
ゆったりと身体を起こした彼女に合わせてオレも身を起こした。じわりと後ろへ逃れようとするが、彼女は依然としてオレの腰の上から退こうとしない。柔らかな尻や太ももの触れる感触に、勘弁してくれと叫びたい。
「なぁに、勃ってるの気にしてるの?だったら抱いてくれればいいじゃない」
「テメェー……オレがこの一晩をどんな思いで過ごしたと思ってる」
「わからないよ。覚えてないし、寝てたんだもん。……どんな思いなのか教えてよ?」
身体を屈めたナマエから熱烈なキスが降ってきた。頭の後ろを撫でて応えると、ナマエはするりと、昨日の晩に貸したシャツを肩から脱ぐ。視界には映らないがその行動はやはりオレの欲を煽る。昨晩おまえにこれを着せてやったのは誰だと思ってやがるんだ。しかしそういう憤りを抱えつつも、愚かな男であるオレは手を伸ばして滑らかな肌に触れた。背中を撫でるとナマエがまたうっとりとした表情になる。
「昨日の夜もわたしに欲情した?」
「したさ」
「ねぇ、わたしだって欲情するんだよ、プロシュート。残念ながら何も知らない子供ってわけじゃあないの」
「そんなのは重々承知だ。……オレは、おまえがこれ以上男に傷付けられる必要はねぇと言ってる」
「……わたしが男なんかに、傷つけられるような女だと?」
眉を寄せて自嘲気味に笑った彼女は先ほどの堪能なキスとは打って変わって、子どもじみた、力いっぱいの抱擁でぎゅうと包んでくる。ああ、人間を抱きしめるやり方を知らないのだ。しかしこのハグの方が方がキスよりもよっぽど抒情的に思える。そんな少女の身体を強く抱いた。
オレは熱に浮かされていた。だからできれば彼女には、逃げて欲しかった。しかしこの女はそんなつもりなど毛頭ないらしい。
「……あなたなら、何してもいいよ」
耳元に聞こえるのはこの上なく艶めかしい響きの言葉であった。
呟いた彼女をひっぺがすと、ついに背中の方へと乱暴に倒してしまった。それでもナマエは微笑み、熱っぽくオレを見上げた。この状況を待ち望んでいたかのように、白く華奢な体躯を少しも隠そうとしない。こちらが支配するように組み敷いているはずの彼女は、神話で船乗りの航海を阻む、妖しく美しい怪物のようにオレを惑わした。
一体昨晩のオレの徒労はなんだったのか。そう思いながら欲望に任せて口付けた。
そういえば、チームでの会合の際、ナマエはよくオレの隣に座ってきた。ナマエは部屋に入ってくると決まって音も立てずにソファーに座って、隣にいるオレに挨拶することもなく、全員が集まるその瞬間まで静かにじっと座っていた。オレが話しかけると、少し笑って頷くことがあった。そういうナマエの様子が嫌いじゃあなかった。
考えないようにしていたことならばいくつもある。彼女が隣を歩いている時に、ふいに手を握ってきたことがあった。寒い夜だった。その時のナマエの手は酷く冷えており、オレが握り返すと少しずつ温度を取り戻した。ナマエもオレも何も喋らなかったが、そのときにオレは、この少女の潜在的などうしようもないさびしさを知った気がする。
「プロシュート……泣いてるわたし、嫌だった?」
腕の中、熱に浮かされて必死に甘い声を上げていたナマエが突然そう訊ねてきた。不安げな色を声に混ぜて。
触れる肌も粘膜も頭の中も、ひどく熱かった。自分がこんなにも熱を持てるということを、彼女と身体を交えて初めて知る。
「愛おしいと思ったよ、ナマエ」
オレの偽りのない言葉を、彼女はぼんやりと耳に受け止めたようだった。少し黙って、彼女に喋らせたいがために緩慢な動作となったオレが与える刺激に吐息を漏らしつつも、譫言のように彼女は言葉を紡ぐ。
「……嘘じゃあ、なかったら、うれしい……。他に何もいらないくらい、うれしい」
嘘なわけがあるかと、こんなに長らく、オレはおまえを大事に思っているというのにと、そう思いながら頭を撫でて見つめた。
頬を赤く染め、ぼんやりと惚けた、潤んで揺れる瞳が熱くオレを見る。
「本当は……酔って誰かを訪ねたのなんか、初めてだったの」
熱い息遣いの中でナマエが囁く。その言葉はオレの心臓をグラリと揺らすほどに重たく、どうにかなりそうなほどに甘いものであった。
題名:徒野さま