春も綻ぶ夢十夜
彼と眠ることをとても懐かしく思った。子どもの頃に、彼の家に預けられて一緒に眠ったことはわたしの心の金庫にきちんと大切にしまわれた記憶の一つであった。おんなじベッドで眠る幼いわたしたちの間に、一緒に一晩泊まりに来た大きな愛犬が入って、三人であたたかに眠った。あれ以上の温かさというものを、わたしはついぞ知らずに死んでゆくのだろうと思う。今は彼一人がわたしを抱きしめてくれていた。犬は死んでしまったから。
「仗助まで休むことないのに」
「今日は学校って気分じゃあねえんだよ」
ごめんねと言えば彼が怒ることを知っていた。だから目を閉じて腕に抱かれたまま、わたしは甘んじて毛布の中で彼の首に顔をうずめた。こんなに腕の力は強くなかった。彼は昔わたしより背が低かったのに、今ではその腕できっと簡単にわたしを好きにできてしまう。そんなことを、彼がするわけがないが。
家庭環境が芳しくないお隣さんであるうちを気にかけて、隣の家に住む朋子さんはよく家に一人になったわたしを預かってくれた。保育園から同じクラスで過ごして、毎日のように一緒に遊んでいた仗助とわたしはとっても仲が良かったが、月日とともにあまり口をきかなくなり、中学生になった頃にはもうお互いほとんど他人のように日々を過ごした。
その原因はわたしにあった。
仗助の家には居心地の良いさみしさがあった。祖父と母親と、息子の3人家族。色々と欠けてしまっているはずなのに、とてもあたたかくて大好きな家庭であった。そして何故か、仗助と一緒にいるとわたしは、隠している痣や酷く爛れた傷が綺麗に治ってしまうのだ。きっとそれは幼い日の、わたしの浮き立った心が作る幻想なのだろう。
でも本当に、それくらいに思うほどに、わたしは仗助と一緒に彼の家で、愛犬と共に過ごしていると、自分の家のことを何もかも忘れていられることができた。
しかし、仗助の体が日毎に成長して大きく逞しくなり、声が低くなっていくたびに、わたしはそんな彼といると両親の口論や父親にぶたれたりする瞬間を連想するようになった。
仗助はたまにどうしようもなくキレるけど、そこには確固たる理由があるし、胸の内は温厚でいつでもわたしにやさしくしてくれる。だからこんなのおかしいと、自分が間違っているのだと頭では理解しているはずなのに、母親が家を出る頃にはどうしようもなくその恐怖がぬぐえなくなっていった。
そしてわたしは離れた。家の前や学校で顔を合わせたって、わたしは彼を知らないふりをして過ごした。大好きな彼を嫌いになりたくなかったから。
だがそんな罰当たりで不義理なわたしのもとに、彼は今日の明け方にやってきた。誰もいない家で、愛犬を看取ったばかりの頃であった。仗助は何も言わなかった。何も言わないで、わたしの左目の周りにあった痣に触れた。どうしてか彼が触れた途端に腫れた熱や肌が切れていた痛みが、すっかり消えてしまった。
仗助は一緒に、庭に深い穴を掘って、すっかり冷たくなった大きな犬をやさしく埋めてくれた。それから彼は寒い庭の中、泥だらけのわたしを泥だらけの腕で強く抱きしめたのだ。
わたしたちは汚れた体を一緒にお風呂で洗って、一緒にベッドに入った。何日も学校に行かず付きっ切りで老いた犬の世話をしていたせいで、まともに眠れていなかったわたしが目覚めたのは夕方頃であった。
仗助はずっと目が覚めていたはずなのに、ずっとわたしの狭いベッドの中にいた。まるで子どもの頃に戻ったみたいに、わたしが目を覚ましてからはずっと二人で声をひそめて喋っている。眠らないわたしたちを叱るやさしく晴れやかな朋子さんはここにいないし、犬を守るわたしを殴った家主だってどこかへ消えたっきり帰ってこないのに、その腕がわたしの肌を性的な意味を持って滑ることは未だに無い。
セットしてない髪をだらりと垂らす仗助は子どもの頃の彼とも、おぼろげな記憶のあの大雪の日から髪型にこだわるようになった彼とも違っていた。紛れもなく男として生まれた、一人の人間がそこにいた。
「昔もこうしたよな。覚えてるか?」
「忘れるわけがないよ」
「なまえ、おまえは昔っから変わんねえな」
「……そうだと思ってくれるの?」
当たり前だろう、と柔らかに囁かれる。その声が胸に染み渡り、わたしをほんのりと癒した。
明け方に、彼と一緒に入った風呂場で少し泣いた。服を脱いだわたしの肌にある傷に彼が触れると、途端にすべて治してしまったからだ。彼の後ろには不思議な、なんだかとても懐かしく思えるような誰かが見えた。その彼を見ると何故だかこれまでの全てに納得をした。
仗助はわたしの父親を殴るといった。暴力の痕をずっと隠してたのはわたしだし、そんなことはしなくていいよと伝えたら、きちんと治すから大丈夫だと言った。どういう理屈なんだろうかと、笑ってしまった。
「わたしの骨折を治してくれたことがあったね」
「木から落ちたって話してたけどよぉ、あれも父親にやられたんだろう。オレは気がつかなかった。馬鹿にも程がある」
腕を緩めて、贖罪の色をたたえた瞳がわたしをみつめる。
「だけど治してくれたじゃあないの。あなたがいつも、わたしの全てを……」
どれだけわたしは彼に救われるのか。
仗助を最初に男とみなし、勝手にお互いを男女のくくりで隔てたのはわたしの方だった。だから、わたしからキスをした。そんなことを犬以外にしたことがなかったけれど、とにかくくちびるを彼の柔らかなそれに押し当ててみると、大きな手がわたしの髪を撫でてそれに応えた。仗助は経験があるんだ。このキスに限らず、わたしを抱きしめたり、手を引く時のすべてが、そうわかるような動作だった。
「おまえがじいちゃんの葬式で泣いたことが、オレは嬉しかったよ」
言葉ととに今度は彼からキスをされる。くちびるがほんのりと離れるたびに上手に呼吸をしなければならないような、苦しいもの。でもとても、心地よくて彼の肌をより温かに感じた。
「ずっと好きなの、仗助。これからも」
「そんなの知ってるよ。おんなじだからな」
笑った仗助は固く固くわたしを抱いてくれた。なにも変わらない。彼はずっとやさしい男の子で、わたしの親友だ。
仗助はわたしの犬と遊ぶのが上手だった。犬はいつでも仗助を恋しがり、散歩をしている時に見つけた彼に飛びついたりして、その頃にはもう喋らなくなっていたわたしたちは気まずい空気になったものだ。今思うと、あれは面白い記憶に感じられる。
いつかまた、きみが、めぐりめぐってわたしと仗助の元に来てくれたらなと願う。仗助とわたしがずっと一緒にいられるかなんてわからないけど、今のわたしにはそういう風に考えることくらいは許してもらえないだろうか。
どうせくだらぬ空想をするならば、明るい未来がいい。あたたかな愛情に包まれたような。
そうしたらまた三人で、おんなじ布団で、世界で一番あたたかに眠ろうじゃあないか。
おやすみ、ありがとう。
題名:徒野さま