うれいごとと副流煙
忘れゆく記憶に関して、五感で最後まで残るのは嗅覚だと言う。
もういいぞと、話し終えたリゾットから視線を投げられてわたしは音を立てずに部屋を出た。部屋には何人かのメンバーがいて、みんな指先や唇に、煙を出す小さな筒を持っていた。
煙草の煙りは好きじゃない。香りとは呪縛だ。わたしをむしばみ、恐ろしい記憶を、まるでついさっきの出来事みたいに思い起こさせる。だからチームのみんながいるところにはあまり近寄らなかった。あの人たちが嫌いなわけではない。リゾットを始めとしてみんなを頼りにしているし、居場所を与えてくれたことを心から感謝している。だから彼らの嗜好を邪魔などする気は決してない。
ただ煙の香りっていうのは、煙草について詳しくない身からしてみると全部の銘柄を同じに感じる。つまりやはり信頼のおける彼らしかいないそこでも、わたしの幼い日々の、芳しく無い記憶は蘇った。
「オイ、ナマエ」
呼びかける声と共に突然首根っこを掴まれた。賑わう街から離れたアジトの建物、その外へ繋がる扉へ手をかけたところでわたしは動きを止める。
声から察するにすぐ後ろにイルーゾォがいた。ここに来ているのは知らなかったし、こんなに近くに来るまで気がつかなかったということは、通路の鏡から出てきたのだろう。
「なあに、どうしたの?」
振り向いてみようとしたが、何故かわたしの首を掴んでいた手がやんわりと背中に降り、熱くて大きな手のひらに力が込められる。わたしの身体は体重をかけるように押されてゆき、ドアに押しつけられた。薄暗い廊下、なぜか出入り口のドアに追い詰められている。首に触れる髪がくすぐったい。
「みんなはいつもの部屋にいるよ」
「おまえに用がある」
「……何がしたいの?」
彼は煙草を吸わなかった。だけど建物に染みつく煙の匂いはやはりここでも例外なくわたしを包む。
いよいよわたしの肩は彼に掴まれたまま完全にドアにくっついている。胸も腰の骨も、ぴたりと同様に押しつけられた。
この状況の何がいちばんおかしいかって、彼とわたしはほとんどまともに会話をしたことがない関係だってことだ。
「なあナマエ、煙が嫌なんだろう」
「そう、そうだよ。……くるしいよ」
何故だかわたしは抱きしめられていた。薄暗くて、身体の大きな男がわたしを追い詰めていて、狭い通路は煙草の匂いがする。この上なく条件は揃い、過去の記憶とたった今わたしを支配する五感の全てが一致し、わたしの身体は萎縮しつつあった。いやな汗が吹き出る。何故だろう、仕事で敵の男とおんなじような状況になった時には迷わずに状況を打破できたというのに。相手が信頼のおけるはずの仲間だからだろうか。
しばらくそうしている間に、彼はようやく身体を離してくれた。思い出したように慌ててドアノブに手をかけてみるが、その手首を強い力に掴まれた。引っ張られて振り返り、彼の手がまたわたしの肩を掴む。今度は背中が冷たい鉄でできたドアに押しつけられた。
またわたしは何故だか抱きしめられて、目を見開いて息を飲む。汗ばんだ首の後ろをさすられながら、彼の肩越しに、少し汚れた薄暗い廊下が見える。壊れてチカチカと点滅する天井の灯りの周りを小さな羽虫が飛んでいた。
「震える必要はねえぜ」
面白がってこんなことをやっているのだと思った。でも、彼の肩に顔を半分押しつけられたおかげで煙の匂いはしない。イルーゾォの身体の匂いはどうしてか心地よかったし、どうしてか彼の声色は柔らかい。
そんな状況は、わたしの身体から次第に力を抜いた。ずり落ちそうになって、慌ててわたしを抱く彼の腕に捕まる。
「イルーゾォ、ここから連れ出して。お願い……。怖くてたまらないの」
「行こう。煙は許可しないから、安心しろよ」
うまいこと術中にはまってしまったのだろうか。しかしこうして彼に縋る以外に何ができたろうか。力の入らない身体を引きずられるように、彼が入ってきた鏡の中に連れてゆかれた。この先に何が待つんだろうか。子供の頃のように目を閉じて我慢していれば終わるだろうかと、そう考えていたが、薄暗い、鏡合わせになっただけでほとんど変わらないアジトの通路は、息苦しい感じはなかった。イルーゾォはわたしに何かするどころか、倒れたり崩れ落ちたりしないように力強く支えてくれていた。
大きな違いは二つ。あの羽虫はいないことと、タバコの匂いはほんの少しもしないってことだ。
わたしはようやくイルーゾォの顔を正面から見た。予想外にも、彼はいつもの自信に満ちた笑顔をしているわけではなく、なんだかわたしの様子を伺っているみたいな、少し慎重な視線を向けている。彼がわたしの背中を支える腕を離しても、わたしはきちんと二本の足で薄暗い通路に立てた。
「外に出るか?」
「……ううん」
わたしはずっとこのアジトが好きじゃなかった。そもそも好きな場所が、この世にあんまりないのだ。しかしわたしはさっき散々体重を預ける羽目になっていたドアと反対の、元よりリビングルームとして使われていたであろう部屋に続く方へと通路を歩いた。イルーゾォが後ろから続く。突き当たる扉を開けてみると、いつもみんなが煙草を吸っている部屋があった。壁にある鏡の奥に、彼らの姿が未だある。その部屋はやはり白い煙に満ちていた。
「誰もいない」
ソファーもテーブルも灰皿も確かにあった。その場所は怖くなかったが、鏡の向こうにもいやな気分を感じなかった。ぼんやりそれらを見つめていたらイルーゾォがわたしの手を取る。
「あなたは、いつもこんな寂しいところにいるの?」
「あっちのほうがいいのか?」
彼の方を見上げると親指で部屋の奥の鏡の方を指していた。しばし沈黙して考えた。彼は軽口を叩いたり、捲し立てたりはせず、黙ってわたしの回答を待った。
「……そうね、あっちのほうがいいのかもしれない」
呟くようにそういう言葉が口から漏れ出た。彼の手がわたしの頭を撫でる。いやな汗は引いていたが、やはりこの部屋は寂しかった。
わたしたちはアジトの中を歩いて回った。一階の部屋も、キッチンも、二階の部屋も全て、物置になってるところまで、寝る前にクローゼットの中にモンスターがいないかどうか確認する子供のような気分で。
終わる頃に、わたしは煙草の匂いがして、電球の周りを羽虫が飛んでいる、あのアジトが恋しくなって来ていた。
「イルーゾォ。勝手で申し訳ないけれど、みんなのところへ戻りたいわ」
「お安い御用だ」
彼は漸く、いつもの自信ありげな表情になった。そんな彼に不思議な感覚を抱いたわたしは感謝と親愛を込めて頬にキスをしようとしたけれど、彼はそれを唇に受け止めた。手のひらで撫でられた首の汗は乾いていた。
突然壁の鏡からイルーゾォと共に現れたわたしを見て、一同がギョッとしたのは言うまでもない。ソルベが一本煙草をくれたので吸ってみたが、むせてしまったし少しも美味しくなかった。おまえはガキだなと、煙を吐き出すイルーゾォがわたしを馬鹿にして笑う。どうやら本当は彼も吸うらしい。わたしも彼の横で笑った。