雨に唄えば!
「くだらねぇ嘘つくな」
「嘘じゃあないもの」
目を伏せたナマエは不服そうに答える。まぶたに塗られた肌になじむアイシャドウはパラソルの隙間から照らす太陽光に当たり、細やかなラメを煌めかせた。こんな目つきをする女が男を知らない処女だと?
レストランのテラス席で食事を取りながら、仕事終わりのおれたちはしょうもない話をしていた。
「靴を選ぶのと同じだよ。わたしは気持ちがぴったりな人をまだ見つけてないの」
「靴だぁ?セックスなんざ意味もクソもねぇよ、欲さえありゃあできるだろうが」
「その欲があんまりないんだよ。でもあなたは色んな欲に満ちてそうだね、ギアッチョ」
「だいたいの人間がそうなんだよ。オメーがいかれてんだ」
「そうなのかな?」
そーだよとぶっきらぼうに答え、ワインを胃へと流し込んだ。ナマエが小さく切り分けた鴨肉を口元へゆったりと運ぶ。暫くして、きちんと咀嚼したものを飲み込んでから、また彼女がおれへ尋ねる。
「ギアッチョの恋人はどんな子なの?」
「いねぇよ、そんなもん」
「どうして?欲さえあれば、でしょう」
「だから、欲だけなんだよ。発散できりゃあそれでいい」
「ああ、なるほど……」
ナマエは鴨肉を切っていたフォークとナイフを皿に置いて、冷えた水の入ったグラスを手にした。しかしそれを飲むこともなく、もう片方の手で唇の下に人差し指の背中を当てた。考え込むときにこの女がよくやる仕草だ。
「……わたしの直感は間違ってたのかも」
「なんの話だ」
「あなたなのかもって、思ってたの。うまくいかないものね」
「……何がおれだと?」
思いのほか情けない聞き返しをしてしまった。彼女は淡々と、当たり前のことを話すみたいに続ける。
「今日履いてるマノロの靴みたいに、ピッタリと気持ちが合う人。……いや、あなたはスニーカーだね。どこまでも走れて、雨の日もへっちゃらな」
「……おれは汚れても良いってのかよ」
「そう。だってスニーカーって、汚れてる方が愛着が湧く」
そんなことを言いながらナマエは眉を寄せて、なぜだか悲壮感に溢れる切なげな顔を見せていた。互いに眉を寄せて、傍目にみたらおれたちは険悪な恋人同士であろう。
視線をどこか斜め下の方に向けているこいつが、おれをそんな風に思っていただなんて少しも気がつかなかった。いや、嘘なのか?そもそもこの、なんでも軽々と簡単にこなす女が処女だなんて話があまり嘘くさい。
いやしかし。そのさみしそうな顔の演技を今この場でおれに対してする必要性は?そもそも必要のない嘘をついたり演技じみた振る舞いをする女ではない。
おれは慌てて声を張り上げた。
「オイ待て!早合点するな」
「なにが?」
「試しだろ、おれにしておけ!」
少し口をあけて、彼女はこの上なく怪訝な顔を向けて来る。
「いやだよ。気持ちがなくてもできるんでしょう?わたしはそう言うのは好きじゃあないな」
「あるんだよボケ!!」
思わず隠していた本心が口から飛び出しちまった。
いつも気怠げに半分閉じられているような目が大きく開き、まつげが蝶みたいに瞬いた。
しかし荒げた声に驚いたのは隣の席のパラソルの下にいる老夫婦の方で、当の彼女はその言葉の内容について興味を持ち、おれを見つめる。
こんなに長く視線を合わせたのは考えてみれば初めてのことかもしれない。
しかしはっと我に返ったような彼女が珍しく語勢を強めて、責めるように言葉を投げる。
「う、嘘つけ!」
「ふざけんな!嘘じゃあねえよ!」
「あなただってわたしが処女じゃあないって疑ってるくせに!」
隣のテーブルの老夫婦から訝しげな視線を投げられていることはわかっている。傍目に見たらくだらぬ痴話喧嘩である。いや、そもそも内容が酷い上に、もしも自分がこんなやつらを見かけたらどういう関係性なのか気になってきそうなところだ。
しかもここはテラスだから、往来を行き交う人間の視線もその都度投げられる。彼女もおれもそれによく気付いてはいるが、今は互いから集中を逸らしてはならなかった。激しい言い合いは続く。
しかしこんなにストレス値を上げる要素が揃ってるってのに、おれがこのテーブルをめちゃくちゃにぶっ壊していないのは何故だ。
「よし、落ち着こうぜ……折衷案だ」
「あなたから落ち着こうぜだなんて言われるとは……」
「セックス無しだ。そのまま暫く恋人っぽいことして過ごそうぜ。どうだ?」
「うーーーん……悪くない、のか……?」
やはりさっきの考えるポーズとなって、彼女は視線を下に向けた。眉をひそめて悩んでいる。その下向きの睫毛を息を飲んで見つめた。
「まあ、いいか……そうしてみようか」
「ヨシ!!!!決まりだな!いいな!?」
「でもギアッチョのことだから、我慢できずにすぐ他の女の子と寝そう」
「……」
「……ねぇ、なんで黙るのよ!そんなことないって言え!」
「そ、そんなことねぇよ!バカにすんな!」
然るべき言葉を遅れて吐いたバカなおれに、ナマエが鴨肉のソースがついたナイフをぶん投げた。すんでのところで掴み取り、怒鳴りつけようと思って彼女の顔を見ると、ナマエが下唇を噛み締めて少し頬を赤くしていることに気がづいた。見間違いじゃあなければ瞳に涙がうっすら膜を貼っている気もする。なんだこの顔は。こんな顔を見せるのは初めてではないか。
「やっぱりやめるわ。それこそ早合点だった。気長に探すことにする」
「あ!?どういうことだぁ!?気長におれと付き合えばいいだろ!なぁオイ!?」
「うるさい!」
今度はグラスが飛んできた。叩き落とすとレンガが敷かれた床に落ちて派手な音を立てて割れる。
テラスの中や往来からの遠巻きな大注目を浴びながら、おれは飛んでくる食器を避けたり跳ね除けたりで必死だった。
しかし何よりも気がかりなのは、傍若無人な振る舞いをしているにもかかわらず、今にも泣き出しそうになっている彼女の表情だ。
「泣くんじゃあねぇよ!」
「泣いてねぇよ!ギアッチョなんか死ね!」
しかしそんな、心底くだらない攻防戦の中、突然隣のテーブルから怒号が飛んできた。そちらにいるのはテラスにいる客の中で何故か唯一避難しないでいる、隣のテーブルの老夫婦達である。ぎょっとして、固まるようにそちらを見やるおれたち。どうやらその声の主は爺さんの方で、怒号はおれへと浴びせられているらしい。
「話を聞いていれば!それでもこの国の男か!?彼女に敬意を込めて謝れ!」
穏やかそうだったじじいが荒々しく怒鳴る姿に呆然自失となり声も出ない、互いに皿やフォークを握って立ちつくしているナマエとおれ。怒りよりも驚きが勝って怒鳴り返す気にもならねぇ。
そんな奇妙な空気の中、夫婦の妻の方と思しき老女は静かにワインを一口飲むと、おれではなくナマエの方を見やった。
お嬢さん、と柔らかな声と共にナマエは手招きされた。ナマエはなぜか大人しく従いつつ身をかがめ、老女に耳を貸す。おれにもそんな態度を見せてみろと言いたい。
健康的に日焼けしてシワの入った、美しい指輪が光る左手が隠す内緒話。それは短く端的に終わったらしかった。
するとどうだ。なんとナマエはその老女の頬にキスをして、熱く抱擁をすると何かをささやき、真っ直ぐに立ち上がった。
いつもの調子を取り戻した彼女は小さなバッグを席から拾い上げるとその中から重なった紙幣を引っ張り出し、はたから恐る恐るおれたちの様子を伺っていた店員に手渡した。多すぎる金額には単なる食事代だけでなく、おれたち(主にナマエ)がぶっ壊した様々な物品の弁償と、謝罪の意思表示と、老夫婦の分の支払いが込められているようだった。彼女の「Mi dispiace tanto.」という言葉が朗らかに添えられる。
それから彼女はおれの方へと振り返って、目の前まで歩み寄ってきた。その眼はさっきみたいに見開かれたり、涙をためたりはせず、やはりいつもの眠たげなものだった。
しかし彼女はおれの手をさらりと拾って強く握る。彼女が老夫婦に手を振っているのを、呆気にとられて眺めた。さっきおれに怒鳴った事が嘘みてぇな笑顔でそれに応えるじじいの腑抜けた面。婆さんはずっと微笑んでいた。
「ナマエ、何を言われた」
顔を覗き込むと笑った彼女に唇の横へとキスをされた。あの内緒話の内容を教える気は毛ほどもないらしい。やっぱりこんな色っぽいキスをしてくる女が処女なわけがあってたまるか。
そんなこんなで、おれたちは怪訝な顔つきばかりの観客に見守られつつ、派手にレストランを退場した。
「オイ!」
暫く黙って引っ張られてやりながら歩いていたが、我慢ならずに立ち止まった。ナマエが急ブレーキをかけた電車の中みたいに後ろによろけるのを受け止める。
すると思いの外、柔和な笑みを浮かべているナマエが振り返り、おれの腕を掴むと背伸びして唇を寄せてきた。だから柔らかい唇に応えるように噛み付いてやりつつ、石畳の上で、マノロのヒールとやらを履いた爪先が伸びているのだろうかと考えた。
「行こう、わたしのスニーカーくん」
握られたままの手が一度離れると、ゆっくりと指を隙間なく絡められる。誰がスニーカーだ。
ぴったりな靴みたいってのはわかる。汚れたいってのもわかる。よぉーくわかる。だが、雨の日でもってのはどういうことだ。
おれはナマエがいれば土砂降りだって雪だって嵐だってハリケーンだって、問題なくどこまでも走れるというのに。おれにとってのおまえは靴なんかじゃあねぇ、全身をぬくぬくと包むホワイト・アルバムみてえなものだというのに。どういうことだ。
腹立たしいが、しかし、自ら身を寄せて、恋人のように隣を歩くナマエに、どうしようもなく気分は高揚した。まさかこんな日が来るとは。
年寄りのくだらぬ助言だけれど、わたしはきっと、彼があなたのスニーカーだと思うわ。
あの老女との話をいつか教えてくれるだろうか。いやこの女のことだ、また軽々とはぐらかすのだろう。