眠たげな神の足元に
朧げな記憶がある。薄暗い部屋に、綺麗に巻かれた髪を揺らして扉を出てゆく後ろ姿。目にした途端に根源的に湧き上がる鬼胎や、果てしない孤独が足元から肉体を染め上げる感覚。そういうぼんやりとした記憶っていうのは、はっきりとしてないからこそ、時折ぼくを漠然とした不安に陥れた。そんなのを思い出すようになったのは、彼女に出会ってからだ。
艶のあるデスクの目の前に立ったナマエが座ったぼくをじっと見下ろしている。そっと、置かれた指先にはよく手入れされて淡い色が塗られた、あまり長くない爪がある。すべらかな手を触りたいと、触ってほしいといつも思う。
彼女はもう既に自宅に戻ったはずだった。今夜の便に乗って、数時間のフライトの後、一人の人間の始末に向かう。彼女は自分が世話になった元上司を殺さねばならない。そしてその大仕事を言い渡したのはぼくだ。
「そろそろ発つ時間だろう。何か忘れ物でも?」
「そう。さっき家に着いてから思い出したの。帰りがけの、あなたの顔を」
「ぼくの顔?」
「今も同じ顔してるよ」
そういう彼女は何かへの懸念を顔に淡く浮かべてぼくを見つめる。しかしふいにデスクから離れると、緩慢な動作で回り込んで椅子に座るぼくのすぐそばへとやってきた。肘をついていたぼくは上体を起こすと背もたれに身を預けて彼女を先ほどよりも近い距離で見上げた。立ち上がろうとしたが、肩に触れられて押し留められる。
「ねぇジョルノ」
彼女はどうしてかぼくを名前で呼んだ。
「あなたがいろんな感情に揺られるのは良いことだと思う。だけど……わたしが腑におちないのはただ一つ」
凜然とした声色である。ナマエの手が伸びて、指の腹がそっと頬を撫でる。やさしい感触だ。こんなことを女性にされたことは幾度もあったが、やさしさや胸の内の温かさが湧き出るように感じるのは初めてのことだ。頬を滑るそれを掴み、強く握った。
「あなたがわたしのこと、いつかどこかへ消えると思っているところだよ」
瞬きを何度かして、ぼくは彼女にキスをしたいと思った。彼女だってそうなのだろう、身をかがめて、ぼくが伸ばした手で髪を撫でると身を寄せてくる。すぐにでも、どちらかがアクションを起こせば唇を触れ合わせることができてしまいそうな距離の中、彼女の顔に迷いが浮かんだ。するとまた彼女はまっすぐに立ち上がってしまう。
「ジョルノ。わたしは今回の仕事をきれいに終わらせて帰ってくると、誓えるわ」
そのあとに強い抱擁があった。ぼくは彼女の背中に手を伸ばして、もう決して離してしまいたくないだなんて、淡い香水の匂いの中に酔った。きみと、ずっとじゃあなくてもいい、ほんの少しでも、日々確かな時間を過ごせたら、こんな仄暗い気分は消えるのでは。
何故こんなふうに考えるんだろうか。ナマエといるとぼくの淡い記憶が引き摺り出されるのだが、それは彼女のせいじゃあない。ぼく自身の中での問題である。彼女の存在がどうしてかきっかけになり、揺さぶられる。
そんな気分を、ナマエが一生懸命に拭おうとしている。耳元で安心して、とやさしく呟かれた。
「きみに、恥ずかしいとろを見せているな。ボスとしての威厳が消えちまう」
「……威厳など、そんなのくだらない」
安堵のため息をついた。
その返事の眩しさたるや。
ぼくは部屋から出てゆく背中を見届けてから、途端に衝動に駆られて立ち上がった。絨毯を足早に踏み締めて、彼女が消えた扉を開く。廊下を曲がって、広い階段にたどり着いた。
「ナマエ」
階段を降りる彼女を呼び止めた。艶やかな髪を揺らして振り向いて、こちらを見上げる顔が、今までで一番美しく見える。
ナマエはぼくの言葉が出る前に微笑みかけた。ゆっくりと、ついさっき降りたばかりの階段をいくつか登ってきて、ぶらりと所在なく垂れ下がるぼくの手を握った。かわいい音を立て、頬に当たる柔らかな唇。香る、節度を持った甘い香り。
「あなたにキスをしに帰ってくるよ」
子どもに言い聞かせるようにそう言った。
また手すりを撫でながら階段を降りてゆく彼女は振り返らず、しかし踊り場で折り返す手すりに沿ってぐるりと回って、更に低くなった位置から顔を上げて再びぼくに微笑み掛けると、下の階に消えて行った。
その姿に重なる過去の記憶はなかった。それでもぼくはまだ、彼女をここへ連れ戻してしまうような情けない顔をしているだろうか?
きっとそんなことはないと信じたい。彼女は宣言した言葉通りに全てを美しく終わらせて、当たり前のように帰ってきたのだから。鮮やかな石のピアスと、唇へのキスを土産に携えて。
ぼくの中からあの朦朧とした感覚の記憶は消えない。しかし彼女の後ろ姿に重なることは無くなった。彼女はぼくの耳たぶにピアスを通し、たくさんキスをして、新しい確かな感覚を溢れんばかりにくれた。
ぼくはそれが嬉しかった。
題名:徒野さま