巫女の口を借りたる
「どうして殺さないの……」
「どうして逃げないんだい?」
壁にわたしを追い詰めるドン・パッショーネは揺れる蝋燭の灯りに照らされて、まるで礼拝堂の天上に描かれる美しきアダムのようであった。この薄暗い部屋に肌と髪が輝く。彼の唇や手がわたしの肌に触れることも、やさしく名前を呼ばれることも、その現実全てから目を背けたかった。
足の付け根をぬるりと這う指先がゆっくりと身体の中に埋め込まれる。その感覚にゾッとしたわたしは目を開けて彼の腕にしがみ付き、縋るように金の巻き毛を垂らす男を見上げた。自分の目が潤んでいることにそこで初めて気がつく。目があった彼が不思議そうにわたしを見つめて、それから納得したように俄かに笑った。
「なにも心配することはない」
小さな子にするみたいに抱きしめられて体がこわばる。肩のうしろに、シャツから顔を出す星の形をした痣が見えた。目の端を涙が落ちる。これが恐怖からくるものなのか、悲しみからくるものなのか、それとも別のものなのか。わかってしまったら終わりだと思った。
連れてこられた寝室で、わたしは丁寧にベッドへ寝かされた。そんな折に彼が殺した男と二人で一緒に狭くてボロいベッドに眠った日を思い出すが、今この状況とは何もかもが違った。あの人たちの何人かと一緒に眠ったことは何度もあっても、誰ともこんなことはしなかった。
ジョルノの口づけはゆっくりと少しずつわたしの肌を辿りながら降りて、脚の間にたどり着くと躊躇いなく舌を這わせた。先ほども触られたところを下から舐め上げられて、首をのけぞらせてシーツにてを彷徨わせるが、まだ大して波打っていない、整ったそれを掴むことが叶わない。完璧なベッドメイキングだ。
わたしもみんなも、人を殺すことを生業とする世の理から外れた者たちだった。しかしそれがどうした。道徳など、わたしたちには贅沢品だったのだ。わたしにとってはただただ、不徳義に乱れたあの場所に唯一の安楽があった。彼らはわたしに居場所を与え、彼らなりのわかりにくい優しさをくれた。わたしはそれが人間というものだと思う。
目の前の男はわたしに、とてもシンプルに優しく触れる。優しく笑う彼は化け物か何かに思えたし、そんな触れ方がなによりも恐ろしい暴力に思えた。傷つけぬようにそっと、再び入り込んでくる指の感覚も。
「きみから全てを奪ったのはぼくだ。だからぼくが持ちうる何もかもをきみに与えよう」
唇を重ねて、割るように舌が入った。わたしは唇に受けるキスを彼の他に一度だけ知っていた。でもそれはもっと荒々しいものだった。ジョルノは優しく、愛撫するようにわたしの舌を絡めとる。それでいて、無意識なのだろうか、どこか支配的だ。記憶に残るものと違う。あの人のものはわたしを支配しようだなんて感じはなかった。きっとあれは、祈りが込められたようなものだった。
彼の指が出ていった場所にあてがわれる熱をまざまざと感じて、サッと血の気が引く。目を閉じて上等なシャツを掴んだ。わたしの中に初めて押し入る男のものの圧迫感に息がつまる。やだ、やめて、とようやく言葉だけでもまともに彼を拒否したわたしだったが、呼吸もままならぬ口がうまく動くわけもなく、当たり前にもう手遅れであった。
あの荒くれ者ばかりの男たちときょうだいのように長い日々を過ごしたというのに、この女みたいな顔をした男にわたしは処女を奪われるのか。だがここに来たのは紛れもなくわたしの意思である。
「いや、いやです、やめてください、苦しいです」
「そんなに苦しくないはずだよ。ゆっくりと慣らしたんだ」
「わからない。わからないの……怖いのとても」
「……泣いてごらん。縋って甘えたっていいし、ぼくを殺そうとしてもいい」
彼が言うように、子どもみたいに泣き叫びたかったのに、唇からは弱々しい言葉だけが出てくる。抱きしめられると密着した彼に奥を抉られて悲鳴が漏れた。その背中を引っ掻く。こんな細やかな傷をつけたところでなにも意味がない。でも視界に見え隠れするその星の痣が疎ましく、美しい。
気を違えてしまいたかった。どうやらわたしの精神はとても強靭らしい。そんな風に言われたことがあったな、おまえはホントにどうしようもなく図太いやつだよって。あれを呆れた調子でやさしく言ったのは、誰だったか。思い出せないほどに、何気ない出来事だったと今ならばわかる。
下品な水音がわたしたちを繋げる部分から耳を塞ぎたくなるほどに聞こえるようになってきていた。同じようにわたしの口からは自分のものとは信じ難い女の声が漏れ出る。きっと逃れる方法なんていくらでもあった。しかし、どうしてわたしにはそれができないのだろう?人殺しを躊躇ったことなど今まで一度もなかったのに。まるで格上の同種を前にした肉食動物が、嘘みたいにおとなしくなってしまうかのように。
「泣いているのかい?」
「ごめんなさい、ごめん、なさい…っ」
「ああ、きみほど美しい人間をぼくは知らない」
背けていた顎を掴まれて、与えられる柔い口付けにまた泣いた。ジョルノはわたしに快感しか与えないのに、ひどく息苦しく、彼の艶麗さや優しい手つきや穏やかな声が、全てがわたしをズタズタに傷付けた。
頭の中で多くの問いがあった。
どうして、戦う決意を固めていたわたしを逃したのだろうか。あの人が拾ったわたしだけが、正式に組織に属していなかったからだろうか。わたしが、刺客として力不足だったからだろうか。わたしより後に入った、人殺しもしたことがないペッシは命を賭して闘ったのに?
どうして、よりにもよって別れ際に、ガキだガキだと言って笑っていたわたしに、あんな風にキスをしたのか、それだけでもいい、教えてリゾット。
ねぇ、みんな。
答えをくれるはずの彼らはみんな派手に豪胆に散った。わたしはその転がった死体を追い求める旅の中で、悍ましく凄惨な姿をいくつも見つけ、とても誇りに思った。あの男が従える暗殺チームにふさわしい最期を、彼らは全うしたのだ。
そしてそう考えれば考えるほど、自分はなんてくだらないのだろうと、徐々に思考回路は朦朧とした。それから暫く様々な場所を彷徨いながら、気がつけばここに来た。
誰一人としてまもとな家族など知らぬ、覚えていない人間たちの中で、家族の真似事をして過ごすのはとても心地よかった。だから彼らのところへ行きたかったのに、自ら死ぬこともできない愚かなわたしはこうして、元凶たる美しい男にやさしく抱かれているのだ。