Cattura il fantasma
夜の街で路地裏に引き摺り込まれた女がいた。それが視界に入った途端にすぐに追いかけて暗がりの迷路のような通路へ走り込んだが、拓けた石畳の広場にまで辿り着いて目にしたのはあまりにも空漠たる夢のような光景であった。
ボロい街灯が薄暗く照らす広場の真ん中に立つ彼女は、自分よりも倍くらいの体格を持つ少年を手も触れずに無力化させていた。少年はみたところかすり傷1つ負っていないというのに、ふらりと立つ武器すら持たない小柄な女を前に石畳に跪き、必死で許しを求めていた。
現れたオレに振り返る彼女がぼんやりと視線を投げかけた。冷たげな顔をした女であった。絵画に描かれるニンフのように整った顔立ちがそう見せているのだろう。顔や体つきにどこか幼さを残す彼女は少女と呼んでも差し支えがない年頃に見えるが、それにしてはあまりに潤いのない荒涼とした雰囲気を携えているようにも思える。間違いなく堅気ではなくスタンド使いであろう。そして、彼女もオレが似たような種類の人間であると恐らくわかってた。互いが互いを探るような視線だったから。
しかし彼女はふと少年の方を見やると、その頭を手のひらで撫でた。固そうな髪に彼女のほっそりとした白い指が柔く触れる。それからまたこちらに首を傾けて、閉ざされていた唇を開いた。
「もうこんなことはしないって、彼は約束したわ。許してあげて」
その落ち着いた声から生まれる言葉にまた驚く。許す許さないを決めるのはオレではないはずなのに、彼女は迷いなくオレに願った。
泣いて彼女を見上げる少年は心の底から怯えつつも、その瞳にはまるで目の前の少女に斎くかのような気宇を強く孕んでいた。スタンドで洗脳でもされちまったのか、だとしたらそれは既にオレにも有効であろう。
「行っていいよ」
所在なさげな表情をしているくせにこの上なくやさしい響きでそう呟いて、彼女は名残惜しげに振り返りつつ離れてゆく大柄な少年を、夜の街へと逃した。
「きっとあの子は大丈夫」
「……何故わかる?」
「ああいう子をわたしの街でもたくさん見てきた。幸運なことに彼は初犯が未遂に終わったから、たぶん平気」
並べ立てられるのは感覚的であまりに訝しい言葉ばかりなのに、それを彼女の投げやりな思想や希望的観測から来るものとは思えなかった。彼女は自分の経験からくる確かな判断に基づいて、核心を持ってそう話していた。
この女は一体だれなのだろうか。そばに歩み寄って、その顔を食い入るように見下ろした。彼女はやはりぼんやりと、まるで幽霊みたいな灰色の靄を纏って、しかし確かにその瞳にオレを映して見つめ返した。
「おまえは……パッショーネの人間か?」
質問には答えなかったが視線はそらされない。
「そうか。この街が美しいのは、あなたのおかげだ」
こんな有様を見て、彼女は尚もオレ達の街をそう形容した。もしかしたら彼女は危険なスタンド使いかもしれないし、どこの組織の人間かも定かではない。しかし、そんないくらでも沸き立つ猜疑心に勝るほどに、オレはどうしても彼女について知りたかった。こんな抗いようのない衝動を覚えるのはいつぶりだろうか。
淡く微笑んだ彼女がオレの腕に触れる。幽霊ならばいいと思ったが、触れる肌には実態があった。限りなくぼんやりとした、死んでいるみたいな人間。そういうものにどうしてか朦朧とした親しみを覚えた。
オレの手をほんのりと握る小さな手が冷たい。逃したくない。彼女を腕に収めて逃げられなくしてしまえば、日々少しずつ動かなくなってゆくこの心を受け止められるような気がした。受け止めたところで、何一つとして変わりはしないが。
オレはこの街に住まいにしているアパートやら家やらをいくつか持っていた。その1つにいざなって、玄関に入った彼女の身体を途端にドアへと押し付け縫い止めるように口付ける。こんなのはあの少年とやってることがほとんど変わらないな、と考えていた所で彼女がオレの髪や首やらを柔らかに撫でた。冷たいのは指先だけで、触れた服の下の脇腹や背中、太ももはとても温かい。全て冷たければいいのにと、ひっそり思う。
「おまえはどうしてここに来たんだ」
「さぁ……ふらふらしてたら」
「ふらふらして、名も知らぬ男に抱かれても構わないのか?」
「失うものがないの」
「……それは嘘だな」
きっと本当は大事なものを多く抱えているのだろう。だからふらりと幽霊みたいになってこの街へ訪れたのだ。そういう行動は理解できなかったが、動機の根本にある部分はなんとなくわかる気がする。その根源的な近しさを彼女も感じているのだと思えば思うほど、求めずにはいられなかった。オレのどうしようもなく野生的な衝迫を、彼女はその小柄な身に嫋やかに受け止めた。
日も昇らぬうちに彼女は毛布とオレの腕の中からするりと起き上がった。寝そべったまま彼女が身支度をする様子をぼんやりと眺めていたが、細く白い腕がワンピースに袖を通したところで起き上がり、背中のファスナーを上げてやった。白い背中が隠れていくのを名残惜しく目で追いつつ、首の付け根まで閉め切ってから、うなじに柔く口付けた。振り返った彼女がオレの頬を冷たい両手で包み唇にお返しのようにキスをする。それを最後に、彼女はベッドを降りた。
「またどこかの街へ?」
きちんとジッパーの上がった背中へそうたずねると、寝室を出ようとする彼女がこちらに向き直る。視線を合わせるオレたちの間には大きな距離があった。
「ブローノ。あなたは幹部にならなきゃダメだよ。その優しさを、わたしは心から尊敬するわ」
初めて無邪気に笑って、教えていないオレの名前を呼んだ。彼女はドアを開けるとまた幽霊のように朝と夜の間に溶けて消えた。18歳の幹部がいるのだと聞いたことを不意に思い出す。その姿を、またいつかオレは捕まえることが出来るだろうか。朧げな体験だというのに、この身に抱いた温かな肌の記憶は強く残った。