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BLコンテスト・グランプリ作品
「見えない臓器の名前は」
- ナノ -
羊たちの沈黙


その気になりゃあこんな小娘ぺろりと喰ってしまえるはずだった。鏡の中に引きずり込みさえすればスタンド能力は無力化できるし、そうすればひとりの非力な少女が残るのみ。新入りでガキのくせにこのイルーゾォに意見したり文句を言ったり軽口を叩いたりと、ほかの人間の前では大人しくしててもオレといるときはいつもせわしなくその小さな口は動いていた。


イルーゾォ、仲間にそういう言い方ってとっても失礼だと思う。

なんでローマにあるのにスペイン広場って名前なのか知ってる?イルーゾォ。

見てイルーゾォ、夜景が綺麗よ。


ナマエがわざわざこのオレに話しかけてくるのは説教や取るに足らぬくだらない内容ばかりだ。女ってのは大抵が金だの待遇だのセックスだの、そういう何らかを求めて近づいてくる者ばかりだと思っていたが、こいつは一体なにが目的でオレに親しげにするのだろうか。こっちから外見を気に入ったり、女の方から誘惑されたりってのはわかるが、生意気な程に軽い調子で接してくる年下の女となんて関わったことがないオレにとっては、この女はあまりに未知で疎ましかった。そういうのは落ち着かない。
だから、どちらが上なのかをわからせてやるつもりだったのだ。オレの求める完璧のために。

そんな女は今、全てが反転したアジトのソファーの上でオレに腕を掴まれて蹂躙されているというのに、何故だか至極冷静な面持ちをしていた。てっきりやめてと、ごめんなさいと哀れに許しをこうと思っていたのに。

「……おい、ナマエ?」

仕事の時のようにギラついた目をしているわけでもなく、オレを見下したり軽蔑する様子もなく。二人きりのときいつでも姦しい唇は今は動かない。あのナマエが、ぼんやりとした所在無さげな視線をオレへ投げかけている。
その瞳には光がなく、何もかもを諦めてしまっている人間の顔つきに思えた。オレはそういうのをこの鏡の中に引きずり込まれて成す術もなくなった人間の顔に何度も見てきたが、しかし、ナマエの場合は様子が少し違っていた。今初めて絶望した感じではない。

オレは身体を起こした。当たり前だがこんなガキを本当に犯す気などさらさらなく、常日頃から生意気なことをほざく彼女に少しお灸をすえてやるかだなんて軽い思いつきだった。
しかしどうだ。オレのアクションに対する彼女の反応を見て、予想しうるこの女の過去を思うと、自分が今まさに行ったことがどうしようもないほどのクズ野郎の行いに思えた。

ナマエの人生にはおそらく、この状態になることが必要だったのだ。パソコンのスイッチの電源をオフにするみたいに、全てを諦めて目の前の人間をなるべく刺激しないように努める。それはまるで、あの羊に似ていた。群れが狼に襲われると突然一頭が気絶して倒れ、そいつが狼に食われている間に仲間たちを逃す、そんな生態を持った種類の。群れの羊は一頭減るが、他は逃げおおせたら生き延びることができる。その群れは狼に出会うたびにほんのりと、少しずつすり減ってはいくが。

「えっ?」

腕を引っ張り、背中を抱えて起き上がらせた。動揺の声を聞きつつ力任せにナマエを抱きしめる。自分でもおかしなことをしている自覚はあったが、こうする他に思いつかなかった。考えてみればオレは物を与える以外での女の慰め方だとか、機嫌の取り方ってもんをほとんど知らない気がする。慰めやご機嫌取りが必要な状況とも思えないが。

「チクショウ……ッ!どうしたらいいんだ!?」

「えっ、なに!?」

「オレがまるで最低なやつじゃあねぇか!」

「ん?最低じゃあないけど、性格は悪いかな……」

腕を緩めてナマエの顔を見やると、ふとその顔に色が戻っている気がした。虚ろに意識がどこかへ消えてしまったかのような表情はまた柔らかくなり、少し前まで真っ青だった頬がほんのりと色づく。目を合わせるとなにかが溢れ出るみたいに彼女が笑った。と思ったのだが、おそらく違う。溢れたのはオレの中の何かだ。そう気づいた。

「本気じゃあないでしょ、わかってたよ」

「だが、おまえはあんな顔を……」

「どんな顔?」

不思議そうにナマエは少し首を傾けた。気づかずにやっているのだろうか。それじゃまるで、マジに生存本能での行動じゃあないか。

尋常ではないストレスに晒された人間が精神を保つために二重人格になるみたいに、彼女がこれまで生きてくるために自然に備わった能力。自分の正気の逃げ道を作るための退っ引きならぬ手段。それは少し、鏡の中に自分の思い通りの世界を作るオレと通ずるものがある気がした。

「ナマエ、どうか埋め合わせをさせてくれ」

「なにが?」

「オレは最低なことをした、だからオレにできることならば何でもする!頼むから何か願いでもなんでも言え!」

「ええ?なんかきもちわる……」

怪訝な顔でこっちを見やる彼女に尚も必死で食い下がった。いつもならそんな態度にイラつくオレだが、とにかく今は自分の行いを後悔して、恥じていた。許して欲しい気持ちもあったが、こんな側面を持って生きている目の前の女を少しでも喜ばせたいと頭のどこかが思っている。

「わたしのこと煩いって、生意気なガキだっていつも言ってるくせに」

「好きなだけ喧しくしてくれ。その方がよっぽどいいと気づいたんだよッ!」

「ねぇイルーゾォ、あなた変だよ?スタンド攻撃でも受けてるの?」

「受けてねぇよ!」

「あははっ」

いつもみたいに口を開けて笑った様子にどうしようもなく安堵させられる。向かい合って座って背中を抱かれたまんま、ナマエは口元に笑みを浮かべ目を細めて、オレをじっと見つめた。生意気と言うよりは、本来伸びやかな女なのかもしれない。頬に何かを確かめるみたいに指が滑る。彼女の指や手のひらの感触はとても柔らかかった。

「わたし、こっちからローマに行きたいな。誰もいないスペイン広場の階段をあなたと登りたい」

「そんなもの、今すぐにでも叶えてやる。他にはないのか?」

「ええ?うーん……。そうだな、一緒に行くのはいつものイルーゾォがいいな。わたしのことうるさいって怒って、イライラしててほしい」

その言葉の真意は不明瞭であったが、オレはもう一度柔らかな身体を抱きしめた。そうしたくてやったのだ。腕の中でクスクスと可笑しそうに笑ってるナマエを初めて悪くないと思う。

「変な人だねあなた」

「……喧しいな。おまえが言えたことか」

「ああ、いつものイルーゾォだ」

背中に回った腕はまるでオレを宥めるみたいだった。考えてみれば今日一番動揺しているのはこちらの方だ。どちらがガキなのかわかったものではない。

その日オレはナマエをとにかくお姫様か何かみたいに扱うつもりでいたが、当のナマエの方はいつもと変わらずオレをからかったり悪態をついたりするものだから、結局はギャーギャーと車の中で騒ぐこととなった。しかし言い合いになるオレたちの他に余計な音はなく、ローマのスペイン広場においてももちろん、鏡の世界は沈黙を貫いていた。